共同体型組織においては個人が組織や集団から「未分化」で、課や係など集団単位で行う仕事が多い。それゆえ一人ひとりの成果や貢献度を正確に把握することが難しい。その結果、おのずと評価には主観や裁量が入りやすく、よほど目に余る開き直りか能力不足でもないかぎり、処遇に大きな差をつけることができない。

 放っておいても手を抜いたり、力を出し惜しんだりしないという暗黙の前提、すなわち性善説を採らざるを得ないのだ。そして性善説に立つ以上、それが裏切られたときは対処できない。さらに一人ひとりの分担が明確に決められていないと、問題が起きたときに責任の所在が不明確になる。そのことが「集団無責任体制」につながりやすい。

会社にしがみつくほうが
得だと確信する社員たち

 また共同体型組織では賃金原資も、役職ポストもあらゆるインセンティブがかぎられているので、おのずと減点主義になりがちだ。そして共同体は、そのなかで波風を立て、和を乱す者がいると、組織・集団として成り立たなくなる。

 こうした理由から内面的な「自治」の精神が消えたとき、リスクを冒して新しいこと、難しい仕事にチャレンジするより、周りと歩調を合わせ無難な道を歩むほうが得だと考える者が増えてくるのである。

 ただ、企業側もまったく手を打たなかったわけではない。バブル崩壊後の1990年代からは、大企業もそれまで聖域だった雇用に手をつけリストラを行ったり、成果主義を取り入れたりするところが増えてきた。

 しかし集団的な執務体制やローテーション人事をはじめとする従来の組織・人事の大枠を変えない以上、社員の行動を大きく変えることはできないし、そもそも日本には一方的な解雇の制限という厚い壁がある。多くの社員たちはこうした状況をながめながら、いくら「肩たたき」されようが会社にしがみついていたほうが得だということを確信するようになった。

 そればかりか、会社に「ぶら下がる」ことに対して、社員が心のなかで多少なりとも抱いてきた後ろめたさをぬぐい去り、ドライで打算的な関わり方を加速したという点で企業側は大きな代償を払ったといえるだろう。