すでに役目を終えたとか新たな品質管理手法にとって代わられたなどの理由もあるが、業務の一環として手当を支給するようになったにもかかわらず一時の盛り上がりを欠くところをみると、やはり「自主的」活動に対する社員たちの熱量が低下したことも一因だといわざるを得ない。

 こうした変化を俯瞰(ふかん)してみると、多くの日本企業では、共同体を支える2本の柱のうち「自治」が薄れ、「受容」だけが残ったことがうかがえる(編集部注/筆者は、共同体の必要条件を、「自治」と「受容」と考えている。「自治」とは、共同体のために自らが主体的に貢献し、メンバーとしての責任を果たすこと。「受容」はメンバーどうしが支え合い、共同体が、あるいは仲間同士が一人ひとりを受け入れ、護っていくこと)。

 それはもはや本来の意味では「共同体」と呼べない。共同体としての内実を欠いた「似而非(えせ)共同体」、すなわち「もの言わぬ集団」(編集部注/不正を見て見ぬふりをしたり、何もしないほうが得という打算でもめ事を起こさないようにする集団)に変質したのである。

共同体型組織の「自治」が消え
「もの言わぬ集団」になった原因

 ここで重要なことをつけ加えておかなければならない。共同体型組織のなかから「自治」が消え、「もの言わぬ集団」になったのは、社会環境の変化により自治の必要性が低下したことだけが原因ではないという点である。集団単位の行動と個人単位の行動とは必ずしも一致しない。

 自治は「私たちの組織」を守るためという集団単位の行動である。たとえ自治の必要性が薄れても、自ら行動し、組織のために貢献することが自分の利益につながると考えたら積極的に貢献するはずである。

 そうしない理由は何か?

 大きな理由は共同体型組織特有の働き方と人事制度のなかに隠れており、そこにある意味で決定的な弱点が存在する。

 共同体型組織は公式組織(目的集団)と共同体(基礎集団)の両方の要素が絡み合っている。両者は本来、まったく異質なものであり、メンバーの「善意」により、かろうじて維持されてきたといえる。言い替えればメンバーが機会主義、すなわち自分の置かれた条件を利用して利己的な行動を取るようになると、共同体型組織は存続できなくなるわけである。

 なお機会主義の弊害は、組織のトップや管理職によるパワハラ、内部告発に対する抑圧といったように組織の上位層の行動として表れる場合もあれば、部下や現場の人たちの行動として表れる場合もある。ここでは後者に焦点を当てよう。