韓国人にとって「戒厳令=軍政」であり、民主体制を否定する言葉

 韓国社会において、戒厳令という言葉には、単なる治安維持の措置という以上の深い歴史的な意味があり、韓国人の強い感情を呼び起こす。特に、1979年の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領暗殺後の混乱、そして1980年「光州事件(5・18民主化運動)」に結びつく記憶は、国民の間に今なお根深い影響を残している。

 1979年12月、全斗煥(チョン・ドゥファン)によるクーデターが起こり軍政が再興され、光州市を中心に民主化を求める市民・学生による大規模なデモが発生した(1980年、光州事件)。これに対する軍の武力弾圧は、数百人以上の死傷者を出す悲劇へとつながった。以後、「戒厳令」は民主体制を否定する象徴として、韓国人の心に刻み込まれたのである。

 こうした歴史的背景を知れば、2024年に尹錫悦が発動した非常戒厳令が国民の激しい反発を招いたのは、ある意味当然と分かるだろう。進歩(リベラル)派や若年層の間では、「再び軍政へ逆行するのか」という恐怖と怒りが噴き出し、かつての光州の記憶が現実の危機として再燃した。

 一方、保守層においては「国家の安定」「北朝鮮や内乱への備え」といった観点から、今回の措置をある程度「やむを得ない」とする意見も根強い。韓国社会における左右の分断は、単なる政策論争にとどまらず、歴史認識や国家観の根本にまで及んでいる。

「民主化=日本への反発」?

 興味深いのは、韓国における民主化運動と、教育における「反日的」ナショナリズムとの接点である。一部には、1979年に朴正煕(パク・チョンヒ)が暗殺されて以降の民主化への期待そのものが、教育的に醸成された「日本への反発」と結びついていたという指摘もある。

 確かに、1960年代以降の韓国教育では、日本統治時代を負の歴史として教える一方で、民主主義・民族自決の価値観を強調してきた。このような背景において、「反日」と「反権威主義」「反軍政」は、しばしば一体化して語られる傾向にある。50年に及ぶこのような教育が、国民の政治意識に深く浸透している以上、「戒厳令」へのアレルギーが並々ならぬものであるのも頷ける。

 尹錫悦はなぜこのような極端な手段に訴えたのか。その真意や政治的な思惑はまだ明らかにされておらず、今後さらに検証が必要だろう。しかし確かなのは、韓国という国において「戒厳」という言葉が持つ歴史の重みを、政権が軽視したという事実である。結果として、それは「非常」ではなく、「致命的」な誤りとして多くの国民の記憶に刻まれてしまった。