人々が、自分の信じたい情報だけを信じている、という状況は、1992年と2016年の間で違わない。違いがあるとしたら、今日において、そうした情念の支配が、情報過多によって引き起こされているということだ。

誰もが無自覚に
情報を選んでいる可能性

 しばしば、ポスト・トゥルースの問題が論じられるとき、それはリベラル派の立場から、保守派の言説を批判するという仕方で展開される。

 特に、トランプがアメリカにおける保守派をある種戯画的に代表する存在であったことから、その印象は決定的になった。ポスト・トゥルースは、保守派に特有の問題であり、それはリベラル派と無縁であると考えている人も、少なくないかも知れない。

 しかし、日比が指摘するような情報過多の状況そのものは、リベラル/保守といった政治的な立場によって異なるものではない。保守派の人々がそうであるのと同様に、リベラル派の人々もまたそうした状況に置かれている。

 したがって、リベラル派の人々もまた、自分が信じたいと思っている情報を信じ、その情報の正誤を意に介さない、という事態もまた、十分に起こりえると考えておかなければならない。日比は次のように指摘している。

 トランプ氏の戦略〔…〕が示している、PC〔Political Correctness:政治的な正しさ=筆者〕派は建前優先の嘘つきだという感覚に注目しよう。左派的な価値観をもって、ポスト真実の政治や時代を批判的に見る人たちは、嘘は彼らの敵対者の側に――つまりトランプ氏やEU離脱派、安倍政権、およびそれらの支持者たちに――のみあるのだと考えるかもしれない。だが、事態は反対側からも見る必要がある。トランプ支持派からすれば、オバマ政権やその後継としてのヒラリー・クリントン氏を支持する人々は、誠実ではないのである。
(『「ポスト真実」の時代│「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか』 津田大介・日比嘉高、祥伝社、2017年)

 日比はここで、保守派を擁護しているのではない。そうではなく、リベラル派が決して嘘を支持することはない、と思い込むことによって、かえって、自分自身の状況を見誤る可能性があると指摘しているのである。

 なぜなら人々は、無自覚のうちに、信じたい情報を正しいと見なしているかも知れないからであり、言い換えるなら、自分が正しいと思っている情報が、実はそれが正しい情報であると信じたかっただけだった、ということを、そもそも自覚していないかも知れないからだ。