親子2代で塾長を務めた慶應の本流
留学で触れた英国自由主義思想

 小泉の父信吉は、慶應義塾の創設者、福澤諭吉の門下生で、福澤の支援を得て英国に留学。帰国後は大蔵省に勤め、横浜正金銀行の設立に関わり、福澤と大隈重信のパイプ役として副頭取になり、その後塾長も務めた。

 信三は、父親が1887年、塾長に就任した翌年に生まれた。94年に信吉が盲腸を悪化させて亡くなると、1年ほど母と福澤邸に同居した。福澤が1901年に亡くなった後、慶應義塾普通部から慶應義塾大政治科に進学。英国、ドイツ、フランスに留学して、経済学部教授に就任した。

 学生時代から研究者に至る足跡は多面的だ。幸徳秋水が処刑された大逆事件に衝撃を受け、芝居や文学にも関心を持った。留学では社会主義やケインズの講義を聞いた。帰国後は自由貿易の優位性を唱えたイギリスの経済学者リカードを中心に研究し、マルクス主義者らと論争。その過程でマルクス経済学説批判に傾斜していった。

 批判の主眼は、生産力の発展が社会主義を生み出すというが、革命はイギリスのような先進国では起きず、後進国のロシアで起きている現実に根ざしていた。教え子に共産党指導者となった野坂参三や野呂栄太郎もいて交流があった。野坂は小泉から英文の「共産党宣言」を借り、筆写した。

 慶應義塾大学では戦時中、東京帝大や早稲田大学のように学者に対する大きな言論弾圧事件は起きていない。小泉に代表されるように反マルクス主義の雰囲気も背景にあった。

 治安維持法違反で検挙された例もほとんどなく、左翼学生の運動も他校に比べれば活発ではない。かといって政府や軍部に積極的に迎合していたわけではなかった。小泉はオールドリベラリストと評される知識人で、中庸的な人物だった。