長嶋監督の戦績が
飛び抜けていなかった理由

 こうした背景には、長嶋さんの指揮官としての実力の限界というより、読売巨人軍という組織の中で本来の実力を十分に発揮できなかった側面もあるのではないかと、私は思っています。

 メディアは「メークドラマ」や「国民的行事」など、派手でキャッチーな想い出を強調しますが、長嶋監督の苦労話には、あまり触れてきませんでした。1975年に監督に就任して1年目の大失敗(球団創設以来初のセ・リーグ最下位)は、川上監督がすべて戦力を使い切ったベテランしかいないチームを託された影響が大きく、長嶋新監督の責任とは言えませんでした。翌年以降、リベンジとしての若手育成は、監督として期待を持たせるものでした。

 しかしその後、成績は伸びず、球団首脳との確執もあって、長嶋監督は抜き打ち的に交代させられました。ファンは激高し、読売新聞の不買運動にまで発展しました。読売グループは90年代に入って再び長嶋政権を復活させましたが、これは長嶋監督の野球人としての能力というより、人気に対する処遇でした。この頃になると、読売新聞の部数を落とさないために巨人軍は存在し、観戦チケットを新聞契約の拡材(拡販材料)にすることが、巨人軍の最大の使命となっていたのです。

 巨人が勝たない限り、そして視聴率をとらない限り、読売新聞の部数が落ちる。この恐怖感がグループを支配し、プロ球団維持の目的は、スタート時の正力松太郎巨人軍オーナーのスローガンであった「日米決戦」ではなく、いつしか日本球界を存続させるためというものになっていました。

 もちろん、日本球界の迷走は巨人だけのせいでありません。巨人戦で稼ぐテレビ視聴料がセ・リーグ各球団の経営の中心となったため、巨人の優勝を後押しするためと思われるような制度変更が行われても、他球団から文句が出ることはなかったのです。

 メジャーで導入されたドラフト制度は、各球団の力を平均化して、競争を促し、どの球団にも優勝のチャンスをもたらすという、米大リーグ全体の隆盛を考えたビジネスモデルでしたが、日本では巨人が逆指名制度(後に希望枠)を導入し、金満球団がさらに強くなる制度に変化してしまいました。