
三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第61回は、個性が「数値化」されることの是非を考える。
「オンリーワン」で本当にいいの?
東京大学現役合格を目指す天野晃一郎と早瀬菜緒は、苦手科目である数学の特訓のために、前作『ドラゴン桜』にも登場した、高齢のスパルタ教師・柳鉄之介の指導を受けることになる。
「一番を目指さない若いヤツが大嫌い」とまで言い放つ柳に、天野と早瀬は強い拒否反応を示すのだった。
柳が本編で語るように「熱中することはカッコ悪い」「競争が嫌い」「みんなと同じで十分」「そこそこの人生で満足」といった価値観は、確かに僕の周りにもある。がむしゃらに努力する姿を見せるのは恥ずかしい、目立つとたたかれるといった感覚が根強く残っているのも事実だ。
よく考えてみると、「1番にならなくてもいい理由」は世の中にあふれている。「ナンバーワンじゃなくてオンリーワン」という言葉は、もはや古臭いと思うほど使いまわされている。そのような中で、ガツガツと数値のみを追い求める人が少なくなるのは必然だ。
しかし、それで本当にいいのだろうか。脱偏差値、個性重視、点数にとらわれない教育。これらは耳心地のよいスローガンとして語られる一方で、私たちの社会そのものは、依然として数値を基盤に動いている。
デジタル社会において、個人の能力はデータやスコアとして可視化され、資本主義社会ではそれが評価や報酬につながる。大学受験に限らず、私たちはあらゆる場面で「数値化された存在」として扱われ、多様性の時代に皮肉にもその傾向は強まっている。偏差値、点数、ランキング――それらを完全に無視して生きることは、現実的には難しい。
教育は「誰かに勝つ」ことではない

もちろん、テストの点数や大学の偏差値といった一面的な基準だけで人を評価することには限界がある。だが、たとえば80点という点数を得て初めて、自分がその科目についてどれほど理解しているかを具体的に振り返ることができる。
つまり、数値という「ものさし」があるからこそ、そこから離れて考えられる。自分の現在地を知るためには、まず指標が必要なのだ。
だからこそ、数値による評価は完全に否定すべきものではない。むしろ、成長や変化を可視化するための一時的な基準として有効だと考えるべきだ。具体的にいえば、模試の偏差値やテストの点数といった評価軸は、学びの過程における足場であり、最終目的地ではないということだ。
たとえば、家を建てるときに使う足場は、家が完成すれば取り外される。それと同じように、偏差値や点数も、いずれは自分自身を形づくるための“土台”としての役割を終え、卒業していくべきものである。
つまり、社会から提示された評価軸を一度受け止めた上で、それを通じて自分自身の軸を育てていくことが重要なのだ。他人と比較して何点とったかではなく、その数値を通して、自分がどんな学びを得たのか、どんな価値を持っているのかを見つめ直す。
確かに競争は嫌いだ。だがそれは、競争そのものが嫌いなのではなく、自分を表現する評価軸の思索の時間すら与えられずに参加を強制されるステルス競争への拒否反応にすぎない。
教育の本質とは、誰かと比べて勝つことではなく、自分という存在を深く知ることにある。そしてその第一歩として、私たちは評価軸を恐れず、しっかりと受け止めるべきなのだと思う。

