「コミュ力」が必要なのに
「コミュ力」の定義が曖昧

 だって、シンプルに考えてみましょう。個人に求める「能力」としての「コミュ力」って、ヘンじゃないですか。

 なぜなら、他者がいてはじめて成り立つのが、「コミュニケーション」です。

 個人単体で、良し悪しや序列のある「能力」には本来なり得ない双方向性・文脈依存性をはらんでいるではないですか。

 そもそも個人に求めてどうにかなることではないのに、それを知ってか知らずか、ずいぶんと熱烈に「コミュ力」推しが続きます。

 そして、職場環境でなんとかうまくやることを、ざっくりと「コミュ力」なんていう、わかるようなわからない個人の「能力」として表し、そこにすべてを背負わせている。

 逆を言えば、「職場の傷つき」という本来関係論的な問題も、個人の「コミュ力」の問題にすり替える土俵は整い、皆がうまいことやれるよう組織が配慮することは何ら要請されず、個人だけが「うまくやること」を「コミュ力」として、絶えず求められる。

 これはしんどい。でも個人の「能力」の問題だと、先ほどから述べているとおり、自らしんどいのだと声を上げようものなら、こんな応酬が予想されます。

――「コミュ力」が低い人は「職場で傷つく」のかもしれませんね。まぁ、がんばって。

 他人事感、疎外感。「コミュ力」の要請を盾に、「職場で傷ついた」と言わせない土俵はとどめをさすがごとく完璧に整うのです。