学歴や学力がある人が
仕事もできるわけではない
そして、20世紀の終わりが差し迫る頃になるといよいよ、「学力」が求められる能力だった時代は牧歌的だったよね、くらいの言説が影響力を増します。時代は次第に勉強だけできても「ガリ勉」と揶揄され、
「世の中、勉強だけできてもしょうがない。21世紀という未来は、20世紀の延長線上ではない。人として、進化できるものしか生きられない」
といった、新しい時代の新しい「能力」を備えた人間の重用が叫ばれるようになります。「先の見えない時代の○○力」などの聞き覚えのあるかけ声が、その一例です。
自分自身にも当時の記憶が残っているのですが、特に21世紀にさしかかる前後は、「これからの時代」「複雑化する社会」「高度化する社会」……そんなわかるようなわからないことばが社会を描写する際の接頭語になっていました。
精緻な議論かどうかはさておき、何やら未知なる21世紀が迫ってきているのなら、今までどおりのことをやっていてもダメそうだ――そんな素朴なロジックがまかり通っていたのです。
すなわちは、これまでの「学力」や「知識偏重型教育」はきっと使いものにならない、と叫ばれ、そこに明確な反論はしがたかったのです。
ちなみにそれは昨今では、教育社会学者によって、あくまでイメージの話であって、「新しい時代に新しい『能力』が必要」という語り自体が、一種のプロパガンダに過ぎないことは言われています(注1)。
しかし一般的にはいまだに、「VUCA(volatility 変動性、uncertainty 不確実性、complexity 複雑性、ambiguity 曖昧性、の頭文字をとった造語。現代社会の予測困難さを表す)の時代にはもっと……」という幻の人材を謳う言説は後を絶ちません。社会が求める「能力」は変遷の一途を相も変わらずたどっていると言えます。
(注1)『暴走する能力主義』中村高康 2018年 ちくま新書