在京テキヤのトップに君臨することとなったのだった。ただし「選出された」のかどうかはなんともいえない。「俺がやる」、が実質に近いかもしれない。

 昭和初期に成立したテキヤの組合は戦中にほとんど休眠状態に陥っており、終戦直後、再編の機運が熟したとき、戦前以来の親分衆が下谷で会議を開いた。その折、自分こそがふさわしいと主張したのが尾津だったともいう(注22)。

 既存の大親分たちは露店商組合が占領軍からどのように遇されるか読めず腰が引けるなか、新興親分の尾津が進み出たのだった。

 日本の当局は、テキヤ組合結成を促し、公認もした。組合が警察管内ごとに支部を設け、その管内に庭場(編集部注/テキヤ界では、いわゆる縄張りをこう呼ぶ)を持つ親分に各支部長を担当させるのを認め、徴税の委任、取り締まり権も認めた。

戦後の物資不足で
急激なインフレに

 たとえば昭和21年初頭ごろ、新橋で露店を張ろうと思えば、組合に以下を払った。まず入会金10円、月会費3円を3カ月分前納する。そのほか毎日ゴミ銭1円、道路占有料1円、電灯1円、直接税毎日甲2円、乙1円、丙50銭、間接税飲食物販売者2円、雑貨1円、小物50銭という税と会費になっていた。

 テキヤからもらう営業許可証である「鑑札」を受けている者は、他地域へ行って商売することも許された(注23)。

 11月17日、青果物及び鮮魚介の公定価格と配給統制が撤廃され、自由な値付けで売れることになり、尾津率いる新宿マーケットで取り扱う商品は全体的に4割ほど安くなった。

 店舗もヨシズ張りから板張りになって、ようやく安定。……とは問屋がおろさず、物がロクにないのに価格は自由なのだからインフレが急激に進んでいった。終戦直後の8月から年末12月までのわずか4カ月の間に、東京の卸売物価は2倍に跳ね上がっていく。

(注22)「新聞記者」第3巻第1号(昭和23年)
(注23)『中小商工業の振興策』川端巌(昭和22年)