石油燃料が街から消えていた時期のこと、トラックはオンボロの木炭車であった。熱海、小田原、保土ケ谷、新宿と停車して、4回も薪を補充しながら、伊東と尾津組マーケットを往復した。
貨幣の価値が低いために、生鮮品と加工品、日用品をほとんど物々交換的に取り引きしながら、尾津はマーケットの品揃えを拡充していった。
新宿にかぎらず都内各地のマーケットが肥大していくにつれ、魚介の仕入れと同様に尾津を悩ませたのが、野菜類の仕入れ。インフレが進み、マーケットで野菜はずいぶんな闇値で売られるようになっていった。これでは「適正価格」をうたった尾津の信念に反する。
正規の組合(統制組合)に露店商らを入れ、正規のルートでの商売とすることで問題を解消しようとした。やはり、尾津のコンプライアンス精神はここでも顔を出すのである。
とはいうものの、露店商たちを組合に入れたいと言い出すと反対の声が湧き上がるだろう。既存組合員である八百屋の店主たちがいい顔をするはずがない。組合からの恩恵、野菜の割り当て量が脅かされるかもしれないからだ。
尾津は、重い心のまま、八百屋業界のドン、全国青果小売商組合連合会会長大澤常太郎のもとへ出向いた。
八百屋業界のドンとの交渉は
意外な結果を迎えた
祈る思いで事情を話すと、大澤は、なんと二つ返事でOK。しかも一言の繰り言をいうわけでもなく、露店商らの境遇をよく理解し、東京都へ折衝をしてくれたのだった。……という流れの尾津の回想と、大澤が後日述べたところでは大きくニュアンスが違う。大澤によれば、まず八百屋組合の役員会に諮ったところ、案の定みんな難色を示してきたという。