その後、生鮮食料品はふたたび統制されることとなったり、配給制度は現実社会に対応できず迷走していくが、ひとまず尾津は「癇癪の虫を殺して」都へ日参し、市場荷受人の許可をいっとき得ると、ここから翌21年初夏ごろにかけて、直接仕入れを断行していった。
尾津は腰の軽い親分である。そしておのれがやろうと決めたことには、没頭する性質を持っている。この鮮魚仕入れの際も、念願の許可をもらうや、親分自らトラックの助手席に乗り込んで、漁港へ買い付け交渉へ出向くことさえあった。
そして見落とさないほうがいいのが、闇市といえば、統制を無視するイリーガルな存在と捉えがちだが、当局に翻弄されながらも、今回のように許諾を得に行ってから動いていること。土地にせよ、商法にせよ、当局からのバックアップがあったからこそ闇市は成立できた。
こうして1日に4000貫(15トン)もの魚介が新宿、浅草、池袋のマーケットに入荷されるようになり(注24)、伊豆や早川のミカン、東北からわかめやきゃらぶき、にしんなども入ってくるようになった。
トラック運転手が目にした
尾津の商品取引の手腕
このころ魚を運んでいたと思われる男の証言が興味深いので引く。昭和後期に会社役員となった老人は、終戦後の一時期、尾津配下のトラック運転手だった。
(前略)運送屋での私の仕事は、伊東から尾津組本部のある新宿まで物資のトラック輸送である。戦後の経済混乱でヤミ物資が全盛を極めた時代に、尾津組の権力は東京はもとより伊東でも大したものだった。伊東からは魚介類、魚油、肥料など800貫ぐらい運び、帰路は新宿から漁網、地下足袋、ゴム長、衣類、日常物資などを運んで帰った。当時の尾津組は物々交換のようなことを手広く行っていたのである。
(『藤倉康善=人と事業株式会社藤倉化学興業所55年史』)
(注24)「朝日新聞」昭和21年5月31日