睦雄も徴兵検査の夜に女を買った。もし、徴兵検査の結果に本当にショックを受けていたのなら、そんな祝い事はしなかったであろう。睦雄は、意識的に徴兵逃れを狙っていたのだ。

 徴兵逃れを狙った理由は、実際に軍隊に入って、戦場へ出征するのが怖かったからなのだろうか。それとも、すでに貝尾の住民への復讐を心に決めていたからなのだろうか。

大陸に続々と出征し
村の同年代の男は消えた

 昭和6年(1931)9月には満州事変が勃発し、戦争は拡大の一途をたどっていた。だから、徴兵令によって村の健康な男たちは20歳になるとみんな兵隊に取られ、村を出ていった。

 こうして、村から20代の男たちの姿が次々と消えてしまった。村に残るのは10代の若者か、30代以上の男たちのいずれかとなる。まれに丙種合格以下の若い男も村に残りはしたが、健康ではないため、夜這いの対象にはなりにくい。

 睦雄が14歳で高等小学校を卒業したころから、貝尾の村はこのような状況になりつつあった。

 このため、性欲の旺盛な村の女性たちは、自身の性欲の処理に困難をきたすようになる。こうなると、女性たちの関心は20代の男性の前後の世代に向かうことになる。

 すなわち、村の女性たちの夜這い相手の候補となったのは、10代後半の若い男たちだった。睦雄が16歳になるころには、すでにそのような状態だったのである。

 徴兵の適用が厳しくなったことから、村の青年たちが村からいなくなり、睦雄のいた時代には村の青年部は、事実上活動不可能な状態に陥っていた。睦雄は、村の活動に加わりたくても、活動の場自体が村になくなっていたのだ。

 こうした状況は睦雄の孤立状態に拍車をかけることとなった。

 しかし、同時に10代後半の睦雄は秀才の優男である。村の女性たちの間では人気があった。

『津山三十人殺し 最終報告書』書影『津山三十人殺し 最終報告書』(石川 清、二見書房)

 夜這いの相手にも不自由はしなかった。もちろん、当初は金を払うことなく、女性たちのほうから大勢寄ってきたに違いない…昭和10年に、睦雄のロウガイスジ(編集部注/労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと。睦雄は祖父、父母を結核で相次いで亡くしていた)の噂が西川トメ(編集部注/睦雄から関係を迫られ強く拒絶したことがある村の女性)の口を介して集落に広がるまでは…。

 兵隊に取られたことで村から青年たちが消えた。それは一方で睦雄の犯行を助長することにもつながった。

 戦局の悪化とその過程における徴兵制度の厳格な運用が進んでしまったことで、睦雄の抑止力や相談相手となるべき若い男性が村から消えてしまったからだ。

 睦雄が集落の多くの女性と関係を持つに至った理由の背景にも、睦雄が犯行に追い込まれる要因の背景にも、戦争の激化が色濃く影を落としていたのである。