睦雄が精神的に不安定になっていた理由のひとつに、睦雄にとって唯一の肉親である姉のみな子が、昭和9年(1934)に嫁いで家を出ていってしまったことも挙げられる。

 ロウガイスジの噂が広まったことで、集落の女性たちは睦雄に対する態度を急変させた。

 そして、睦雄の心の安全装置ともいうべき存在だったみな子が嫁いで家を出てしまった…こうして、昭和10年の春、睦雄の心の中の“何か”が壊れた。

 同時に睦雄のなかに貝尾の村人の大半を殺害してしまおうという“殺意”が芽生えた。

貝尾で2つに分かれた
睦雄をめぐるグループ

 この時、貝尾における睦雄をめぐるグループは大きくふたつにわかれていたという。

 ひとつはいね(編集部注/睦雄の祖母。祖父の後妻であり、睦雄と血縁関係はない)の親戚にあたるグループ。これは寺井一族(元一、勲、茂吉など)と役場の職員で貝尾一のインテリである西川昇一家などから構成されていた。

 このグループに属する人たちは、少なくとも露骨には睦雄のロウガイスジを差別したりはしなかった。ただ、睦雄と関係のあった寺井マツ子(いねの甥の弘の妻)だけは例外で、ロウガイスジの睦雄に対して、ほかの村の女性と同様の態度をとっていた。

 もうひとつのグループは、村の圧倒的多数を構成するそのほかの人たちだった。彼らはロウガイスジの睦雄を仲間外れにし、事実上の村八分状態へと追い込んでいった。村の女性たちの大半はこのグループに属していたことは、睦雄の恋した寺井ゆり子の次の証言からでもわかる。

「むつおさんが、道路の前のほうから歩いてくるのを見かけたら、怖かったので、逃げました。道路から外れて、田んぼのあぜ道を歩いて、むつおさんを迂回して避けていました。わたしだけじゃない。ほかの女の人たちも、みんなそうでしたよ」

 結核(労咳)を恐れるあまり、ゆり子のような反応をする者は珍しくなかった。それほど結核という病は当時恐れられていたのだ。幼い子どもを抱える母親たちも強い嫌悪や恐怖の念を睦雄に対して抱いた。

ロウガイスジの肺病持ちは
化け物扱いされた

 当時のロウガイスジの肺病の持ち主に対しては、おおむね同様のイジメのような仕打ちが行なわれたという。加茂谷の昔の暮らしぶりをよく知るある古老は次のように語った。