「寺井弘の嫁さんのマツ子さんという人の家へ、睦雄が遊びに行く、ということを聞いたことがあります。私が聞いたのは昨年(昭和12年)でしたが、いつ聞いたかは、判然と覚えていません。私は睦雄に対して『どういうわけで、よく遊びに行くのか?』と聞くと、『親類だから行くのだ』と言っていました。それ以外には、女の人のいる家へよく遊びに行くというようなことは、聞いたことはありません」(事件後のみな子の供述)

犯人の遺書に記された
殺意の真相

 この頃、つまり昭和11年当時の睦雄はどのような状態にあったのか。マツ子との間で発生したトラブルを示唆する睦雄の遺書を再び引用する。

…(自宅でマツ子に罵倒されて)この時の僕の怒り、心中煮えくりかえるとは、このことだろう。

「おのれ!」

 と思って、庭先に飛び出したが、いかんせん(病気で)弱っている僕は(マツ子の)後を追えない。マツ子は逃げ帰ってしまった。

 僕は、悲憤の涙にくれて、しばらく顔が上がらなかった。

 そうして泣いたあげく、それほどまでに人をバカにするなら、

「ようし、必ず殺してやろう!」

 と深く決心した。

 けれど、その当時僕は病床から少しもはなれることができないくらい、弱っていたから、あいつ(マツ子)が僕を見くびったのも無理はなかった。百メートルも歩けなかった僕だった…。

(5月18日に記した1通目の睦雄の遺書。カッコ内は筆者)

 遺書によれば当時、睦雄自身は100メートルも歩けないほど弱っていたというが、医師の診断では肺尖カタルはほぼ快復した状態だった。

『津山三十人殺し 最終報告書』書影『津山三十人殺し 最終報告書』(石川 清、二見書房)

 しかし、医師の診断とは異なり、睦雄自身は体調が悪かったと自覚していた。肺病ではなく、心理的な症状(うつ病など)だった可能性もある。

 睦雄は自身の体調が悪いのは肺結核にかかっているせいだと思い込んでいた。このため、睦雄は胃腸薬の「わかもと」を常用し、生卵を1日6個も食べるなど、さまざまな民間療法にも手を出していた。

 しかし、一方で睦雄は自身が病の身でなければならないという強い強迫観念に苛まれていたような節もある。

 そして、睦雄の抱いた狂気や殺意は少しずつ発酵の度合いを深めていくこととなる。