今日でも、ほとんどの文化人は気づいていませんが、「学生運動を消滅させたのは三島事件の学生たちだった」と私は思っています。たとえば、私と同い年の1955年(昭和30年)生まれの有名人には、プロ野球選手の江川卓とオウム真理教の麻原彰晃、1年上には安倍晋三元首相と投資ジャーナル事件の中江滋樹、1年下には作家の林真理子といった人たちがいます。

 彼らに共通するのは、学生運動の「清く正しく美しく」の精神ではなく、「贅沢は素敵だ」(消費時代を象徴する雑誌『BRUTUS』のタイトル)という「物欲肯定」「自らの欲望肯定」という思想がはっきりしていることです。彼らが「学生運動なんて、マルクスも吉本隆明も読みもせず、国際情勢などわかってもいないのに、流行として『革命』を叫んでいるだけ。本気で革命など考えていないのに、ましてやそのために命をかけることなど寸毫(すんごう)も考えていないのに、集団になると強気になり、自分たちでさえ信じていない主張を大人しい学生に押しつける、怪しげなやつら」といった印象を持っていたであろうことは、間違いないと思います。

『踊り疲れて』著者の塩田氏は、たぶん三島事件を意識していないと思いますが、現代におけるSNSの信奉者はあの学生運動に狂奔した「お気楽な学生たち」の価値観を踏襲しており、それが全世代に広まったのが今日の状況なのではないかと、私はこの本から感じ取りました。

「踊りつかれた」令和の週刊誌が
今こそ持つべき矜持とは

 私は三島や「盾の会」に傾倒しているわけではなく、思想的にはいたって中立な立場です。しかし、令和に「楯の会」のような存在がもしあるとしたら、SNSと週刊誌のスキャンダリズムに対してどんなクーデターを起こすのか。どんなヒーローがこの浅薄なブームを潰すのか。なんだか、何かが起こりそうな希望が湧いてきたのです。私がこの本を「予言の書」と述べたのは、そういう意味です。

 最後に、週刊誌の後輩たちにどうしても読んでほしい、本書に出てくる「枯葉」の名言を紹介します。サマセット・モームの著書『月と六ペンス』の中にある、「義憤には必ず自己満足が含まれていて、ユーモアがある人間なら誰でもきまり悪さを感じるものだ」という言葉です。

「枯葉」は、この言葉をSNSの誹謗中傷投稿者への批判として使用していますが、私は今の『週刊文春』も文春伝統のユーモアのセンスが薄れていることに危惧を感じています。特にそう思うのは、オチがある記事が少なくなったことです。ユーモアとは記事を書く自分のことを客観的に見る精神であり、「正義の刃」だけが週刊誌の使命ではないことを理解する能力です。

 令和の週刊誌は、浅薄な人々に教養とユーモアのある記事で敢然と反撃できるメディアであり続けようではありませんか。

(元週刊文春・月刊文藝春秋編集長 木俣正剛)