自転車の走り方が取り締まられるのは歩行者を守る意味合いももちろんあるが、車対自転車の事故が重大化しやすいことも理由になっている。2024年に起きた自転車乗車中の死亡事故では、80%超のケースで自転車側にも前方不注意や信号無視などの違反が見られたとのことで(警察庁発表)、自転車への青切符導入はひいては自転車利用者の命を守る試みにもなってくるのである。

法令を追いかける形で
醸成されていく価値観 

 自転車で命を守るというともっとも密接で直接的に効果を上げてくれそうなのがヘルメットである。「自転車乗用中死者の損傷主部位比較」という警視庁作成のグラフによると、頭部が64.0%で圧倒的に多い。また、着用時に比べて非着用時は致死率が1.8倍上がるらしい。

 だがヘルメットの着用は普及しない。データがどれだけおそろしい数字を示そうとその脅威は実感するのは、えてして人間の想像力では簡単ではない。「すごく怖いな」と思うところまでは比較的簡単にできるが、では実際にヘルメットを着用するかとなると途端にハードルが跳ね上がる。

 現在、道交法や東京都の条例で自転車のヘルメット着用は「努力義務」という中途半端な扱いになっていて、混迷する会議や世論の終着点、その場をなんとか丸く収めるための無難な方便としてきっとそれが出てきたのだろうという気配がぷんぷんしているが(会議の常である)、ヘルメットは重たいし煩わしいし持ち運びの労もあるしかぶれば髪が乱れるしで、実際にはなんの強制力もない「努力義務」などと言われれば、無視・軽視されるのが当然の帰結である。

 そんな世相の中にあって、「ヘルメット着用は野暮ったい」といった雰囲気すらある。ヘルメットの着用を義務付けられている自転車通学の中学生は全国的に(一部で)「ヘル中」と愛を込めて呼ばれているが、それも「思春期真っただ中の中学生」と「ヘルメットの野暮ったさ」の2要素が織りなす独特の趣き深さがあるからではあるまいか。

 今日では乗車時着用が当たり前になった後部座席のシートベルトも(世代が上に行くほど着用意識が低くなる傾向にありそうではあるが)、それまでは着用がまさに「努力義務」であった。さらにさかのぼるなら運転席・助手席での着用義務化も段階的に行われてきていて(1985年に高速道路等で、1992年に一般道で着用義務化)、それにつれてシートベルト観も遷移してきた歴史がある。