蓑田は、東京帝国大学で学び、自ら創刊した月刊誌『原理日本』を足場に、国粋主義的立場から自由主義的な知識人を徹底的に攻撃した。そのスタイルは特異で、執拗だった。攻撃対象を決めると、批判をエスカレートさせ、大学教授には著書の発売禁止を要求し、政府や軍部を巻き込んで辞職するまで続けた。

 当時、東京帝大で助手から助教授時代に蓑田らの風圧を身を持って体験した若き政治学徒の丸山眞男は、「東京帝大にとって最大の受難時代だ」と振り返り、戦後、米国で赤狩りの先頭に立ったマッカーシー上院議員に例えた。

立花隆が「狂信右翼」と呼んだ
希代の言語魔術師

 ジャーナリストの立花隆は著書『天皇と東大』で、蓑田を「狂信右翼」と呼んでいる。「実に奇っ怪な人物で、昭和前期の日本において、一時期異常なほどのパワーをもって、日本の言論・思想界をウラから支配した男として、畏怖され、意識され、嫌悪され、憎まれた男」「スローガン『大政翼賛・臣道実践』を考えだし、社会に押し付けることができた稀代の言語魔術師」と表現する。

 蓑田の名前を轟かせることになった1933年の滝川事件は、『刑法読本』などで自由主義的刑法学を唱えていた京都帝国大学の滝川幸辰教授が、「マルクス主義者で、国家破壊者だ」と非難され、教授職を追われた事件だ。それまでの弾圧対象は共産主義者だったが、滝川事件以後、自由主義者も標的となった。

 その起点は滝川事件の4年前、29年6月に京都帝大で開かれた蓑田の講演会だと、立花は著書で紹介している。

 蓑田は17年に東京帝国大の文科大学(19年に文学部に改組)に入学した。一時期、「興国同志会」という国粋主義の学生団体に所属、憲法学の上杉慎吉教授に師事した。上杉は天皇機関説を巡って美濃部達吉と激しい議論の応酬をした人物でもある。卒業後は22年4月から慶應義塾大学で予科教授に就いたが、25年11月に、大学の興国同志会の先輩だった三井甲之らと『原理日本』を創刊、活動の中心を置いた。