しばしば「正義の暴走」などともいわれますが、非難する相手が本当に不正を働いているのかが定かでないままに感情的に煽られ、特定の人を追い詰めるところにまで、私たちは簡単に行ってしまうのです。

 これは人類学などで指摘されている「殺人の快楽」と等しいともいわれます。こうした歯止めの利かない恐ろしい攻撃性を観察していると、私たちにとって「やさしいをつづける」ことが極めて困難であることがよくわかってきます。

なぜ「人権」が発明され
世界各国の法律に書き込まれたのか

 そもそも、どうして倫理や道徳が、学校教育で必要なのでしょう。なぜ「人権」という法的権利が18世紀にヨーロッパで発明され、それが世界各国の法律に書き込まれなければならなかったのでしょうか(*3)。

(*3)この「人権」は、当時行われていた残酷な拷問などを不快と感じる人々のマインドが18世紀までに育まれた結果として創造されてきます。当時、ルソーの『ジュリ、または新エロイーズ』といった小説がベストセラーとなりますが、読者は小説内の個人的には知らない登場人物に感情移入し、熱狂し、号泣しました。それによって人々は、誰もが自分と似たような内面性をもつことを理解するようになります。黒人であれ、女性であれ、奴隷であれ、どのような人々も同じ人間であることを理解し、苦しむ人に対する共感の力が増幅されたのです。リン・ハント『人権を創造する』(松浦義弘訳、岩波書店、2011)

 もし人々がどんなときにもやさしく、いつも他人を思いやれる存在であるならば、倫理や道徳など必要なかったはずです。「人権」という概念すら要らなかったでしょう。

 つまり、この社会に倫理や道徳、人権が必要とされつづけていることが、私たちのやさしいはつづかないことを裏づけているのです。社会が「他人にやさしくなろう」というメッセージを発信しつづけなければならないのもそのためです。