ただそうはいっても、フリーライドを許すことのほうが、許さないことよりも難しいと感じられるのではないでしょうか。「やさしいがつづかない」と日頃から悩んでいる人ほど、フリーライドへの怒りが多く蓄積しているのかもしれません。

 悪意ある他人のフリーライドは許すことはできず、許せる場合というのは、友人やパートナー、子どもといった身近で気のおけない人、あるいは子犬や子猫といった保護を必要とする弱いものに限定されているでしょう。彼らは不正を犯すはずがないという信頼があるからでしょうか(その分、裏切られたときの怒りは激しくなりますが)。

 そもそも不正を許さないとする感覚は、私たちの生命と暮らし、財産を守るのに必要なものです。それは人間の尊厳にもつながっています。だからそれらが脅かされるときには、やさしくならないことにも十分な理由があるのです。

「不正は絶対に許さない」と
「他人にやさしくなろう」

 実際に、私たちが生きる社会では「不正は絶対に許さない」というメッセージが発信されています。その一方で、「他人にやさしくなろう」とのメッセージも社会から同時に発せられています。

 この2つはうまく噛み合わないようにも見えます。

 あなたは不正を行った人にもやさしくできる自信がありますか? 難しいのではないでしょうか。しかしこの難しさの中にこそ「他人にやさしくなろう」というメッセージが必要な理由があるのです。どうして社会はこの2つのメッセージを同時に発さなければならないのかを考えてみる必要がありそうです。

 昨今のSNSを見ていればわかるように、誰かが誰かに対する不正を告発したことを発端に、そこから非難がとめどなくくり広げられ、誹謗中傷にまで発展してしまいます。その誰かを祭り上げて炎上させ、社会的に抹殺するにとどまらず、ひどい場合には、自死させるところまで集団の暗い力は広がっていきます。