この感情がとても重要なのは、そこに人間固有の「不正義の感覚(*2)」が生じているからです。この特性はよく覚えておいてください。これは古くから受け継がれてきた人間の本性のひとつです。このズルいという感情は、「公正」であるべきという理想の裏返しであり、やさしいがつづかないことの理由のひとつでもあります。 それに対して、やさしいことは、この人間の「ズルいという感情」に一見すると反するものです。
考えてみてください。やさしいことはフリーライダーを抑え、防止することよりも、その逆に助長に貢献することにならないでしょうか? だってフリーライドしている人がいても、それをおおらかに受け入れ、すなおに許すことがやさしいことだからです。それが他人への思いやりでもあります。
(*2)ジュディス・シュクラー『不正義とは何か』(川上洋平、沼尾恵、松元雅和訳、岩波書店、2023
フリーライドは許したくないのに
許す「やさしさ」をもちあわせている
これはとても不思議なことです。どうして私たちは、一方でフリーライドは許したくないのに、他方でフリーライドを許す「やさしさ」をもちあわせているのでしょう。
人はときにフリーライダーに対してさえ、「まあまあ、そういわず、彼らにもそれなりの理由があるはずだから、ちゃんと話を聞いて大目に見てあげましょう」と包み込む寛大さを発揮します。
ここでいう「やさしい」は「寛容さ」として理解できますし、「利他行為(他人に利益をもたらす行為)」ともいわれます。これもまた人間の本性のひとつなのです。
見知らぬ人に寄付をしたり、自分は我慢してでも子どもに食べさせたり、友人に見返りを求めないプレゼントをあげたりします。これも厳密に考えれば、フリーライドの一種なのですが、そこに私たちは不正義を感じることはありません。むしろ喜んでそうするのです。
フリーライドを許さないこと(不正義の感覚)とフリーライドを許すこと(やさしさ/利他行為)、そのどちらもが人間の本性の中に組み込まれているため、その両方によって私たちは引き裂かれそうになることがしばしばあるのです。