自己反省する真面目な人ほど
理不尽な怒りをぶつけられる

 常軌を逸して怒る人がいる。些細な犯罪を「死刑にしろ」などと主張するのも、自分に対する怒りの外化であろう。女子高の先生が「女子生徒が男子と話していた」ということで、常軌を逸して厳罰にするなどというのも、その先生の自分に対する怒りの生徒への外化だ。

 子どもが漢字の覚え方が遅いと言って折檻するなどというのも、親の自分に対する怒りの子どもへの外化で、先生が生徒に「宿題を忘れた」と言って体罰を与えるなどというのも同じであろう。

 普通の人なら気にならない程度の、隣の家のテレビが煩くて寝られないなどというのも同じである。そのテレビの煩さに、どの程度怒りを感じるかである。誰でも隣の家のテレビは煩わしいし、不愉快である。ただそれが原因で怒り、ノイローゼにまでなるかどうかである。

 要するに、極端な怒りには外化が関係していることが多い。

 生徒が先生を非難する。自分のことを棚上げできる立場にいる生徒が先生を責める。

 このように、投影して非難された人は反省する気持ちになるよりも惨めな気持ちになる。意気消沈する。非難された人は惨めになり、「自分はこのような立場にいてはいけないのだ」「自分はこのような立場にいる資格がないのだ」という罪の意識を持つ。

 非難された人は不快な気持ちになる。決して「励み」にはならない。非難する人は相手を不愉快にさせることが目的なのである。杉田氏(注1)は、このような非難のカモにされる人は自己反省しやすい人だと言う。まさにその通りで、自己否定の人と他者否定の人との組み合わせなのである。

なりたい自分になれないと
自分を嫌いになってしまう

 ある読者から手紙をもらった。

「私は36歳で主人と私の母と娘(中1)と暮らしていますが、家族の者が私の思い通りにならないととても腹が立つのです。例えば私がどこかへ行こうと言うと、『ウン、行こう!!』とすぐ賛成しないと気に入りません。また、家族の者が人に対して私の思うように接してくれないと腹が立ちます。主人に対しても完璧を求めてイライラします。

 そのくせ自分は他人の目ばかりが気になります。相手の何気ない仕草で、その人の思っていることを自分なりに解釈してしまうのです。そして相手に合わせるばかりなので、人と会うとすごく疲れます」

(注1)杉田峰康、『こじれる人間関係』、創元社、1983