誰かを激励する際、欧米ではよく「幸運を祈る」と声かけするが、日本では息を吐くように「頑張って」という言葉が使われている。その背景には、「失敗は全て本人の責任」という努力至上主義の考えや、行き過ぎれば人の心を蝕みかねない自責思考が存在していた。本稿は、イタリア人精神科医パントー・フランチェスコ『日本のコミュニケーションを診る~遠慮・建前・気疲れ社会』(光文社)の一部を抜粋・編集したものです。
日本社会にはびこる
「自己責任」という風潮
「頑張ります」「頑張って」という言葉は、日本の日常生活でかなり頻繁に使われる言葉だ。努力する、くじけず困難に立ち向かおうとするという意味で受け止めるのであれば、個人的にも気に入っている言葉である。
面白いことに、どの国のどの言語でも「頑張る」と似た概念こそあれ、ピタリと一致する言葉はない。少なくとも、私の知る英語とイタリア語には存在しない。例えばイタリア語であれば、試験を受ける友達には「Buona fortuna」(幸運を)と言う。
「頑張って」という言葉には「努力」のニュアンスが含まれている。努力すれば、踏ん張れば、何とかなる。自分の意志を貫き通すようなイメージだ。一方、「Good luck!」「Buona fortuna」という言葉からは、本人の努力や意志の影響を軽くして、運による部分が強調される。運が良ければ物事がうまくいくが、運が悪ければどれだけ努力しても難しいという信念が根深いのかもしれない。
さらにいえば、イタリアにはこういうときの常套句がある。「In bocca al lupo」(オオカミの口の中へ)という表現で、先の「Buona fortuna」よりもはるかに頻繁に使う。この言葉を贈られた人が「Crepi!」(くたばれ!)と返すのが定番の流れである。イタリアには幸運を祈ること自体が悪運をもたらすという迷信があり、逆に最悪の可能性を口にしたら厄払い的な意味を持ち、相手を守れると信じられているわけだ。それがこのやり取りである。
もちろん、欧米社会で本人の努力が重んじられていないわけではない。ただ、努力を重ねても自分の意志だけではコントロールできない要素がどうしてもあることが前提になっている。それが、失敗した場合も過剰に本人を咎めない風潮につながっているのではないか。