
三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第65回は、「過保護な親」と子どもの関係性について考える。
「東大生の親って子どもに『勉強しろ』って言わないんでしょ?」
天野晃一郎に反抗的な態度を向けられた天野の母は、ショックのあまり彼を指導する東大合格請負人・桜木建二を訪れる。「やっぱり私、過保護な親なんでしょうか」と心配する母親に、桜木は「母親が過保護で何が悪いんでしょうか?」と開き直る。
「過保護な親」と聞いてどのような親を思い浮かべるだろうか。必要以上に子どもを甘やかす親、というのが本来の意味だ。
だが、自分の周りの学生・生徒との会話を思い返すと、「過干渉」という意味でも使われるようになってきている。また、子どもを過度に拘束する「毒親」のニュアンスでも用いられる。
以前このコラムでも書かせていただいたが、大学2年生である私の持論は「大学受験に関していえば、お金と体調管理以外のことは、求められない限りするべきではない」というものだ。
「東大生の親って子どもに『勉強しろ』って言わないんでしょ?」
これは、小中高生の保護者からよく聞かれる言葉だ。しかし、残念ながら「そうなんですよ。だから、子どもさんには勉強を強制しないほうがいいですよ」と笑顔で返答することはできない。
もちろん、誰から言われることなく勉強した、という東大生が比較的多いのは事実だ。だが、なかには「進学校等に通っていて、自然と東大を目指す雰囲気だった」という例もある。
だが全員がそういうわけではない。私の東大生の知り合いには「中高6年間で友達と外で遊ぶことが許されたのは2回だけ。あとは勉強づけ」という人もいる。そのような人が、何か精神的に参っているかというとそういうわけでもなく、普通に過ごしている。
あえて不遜な言い方をするが「東大合格レベル」であれば、本人の主体的な意欲がなくても、親が勉強を強制するだけで手に入れることができる。もちろん適切な指導や環境があればの話だが。
親の否定は「甘えられる味方」を削るのと同じだ

結局のところ、家庭の事情は十人十色だ。虐待という「絶対不正解」はあれど、「絶対正解」はない。
とても優秀なのに親の希望で志望校を変更させられた友達。自発的に勉強したけど全く振るわなかった友達。親に干渉されまくっても跳ね除けて自分の意思を通した友達……。ハッピーエンドかどうかで分類するのが馬鹿らしいくらい多種多様な家庭環境を見てきた。
ただ受験を終えた子どもの立場としていうならば、「親を否定すること」は何よりつらいし、「親を言い訳にすること」は何より虚しい。
親が言ったこと・望んでいることが、自分が思っていることと違っているとき、素直に意見を曲げられる子どもは少ない。私だってそうだ。それでも、自分を育ててくれた親には「頼り、甘えられる存在でありたい」という欲求が残っている。完全に否定することは、自分の味方を削ることだからつらい。
そして、親の存在、親の指図を言い訳にすることは、やめた方がいい。「親に対するアンチテーゼ」のみが行動の基準だと、遅かれ早かれ自立するときに苦労するだろう。親がいなくなった時に、逆説的に何もできなくなるからだ。
親を否定すること、親を言い訳にすることは何より逃げ道になりやすい。「何かをしない」という理由になるからだ。だが、長期的な視点で考えるとあまりいいことはない。私は親になった時には(なれるかはわからないが)「否定されず、言い訳にされない」ために、常に子どもに学びを提供できる存在でありたい。

