(5)親の死後は弁護士を立てる。それも依頼人のために忠実に働く弁護士を選ぶ。そして法的手続に移行する。そのあとは兄弟姉妹が何を言ってきても無視をする。弁護士がすべて盾として矢面に立ってくれるのだ。裁判になっても、本人には出頭義務はない。弁護士の陰に隠れて、言いたいことだけを主張できる。

(6)これらのことによって、「介護は少なめに、相続は多めに」は実現する。キーマンとなった兄弟姉妹は介護のために、時間的にも経済的にもさまざまな負担をしているのだが、それをしなくて済んだのだから、たとえ対等の相続分となっても、結果的に「多め」となる。

 弁護士費用は掛かるが、いわば必要経費だ。それによって弁護士を矢面に立たせることができるので、兄弟姉妹の責めるような目を見なくて済むし、文句を直接に言われることもない。他の兄弟姉妹もいざ裁判となったら弁護士を雇わないことには、法律的素人では太刀打ちできない。弁護士費用はどちらもが出捐することになる。

法律や裁判所は
介護と相続は別と考えている

 以上の(1)~(6)が、介護からの逃げ得をする方法だ。やろうと思えば、誰にだってできる。亡くなった親が草葉の陰から悲しんでいるといった発想もしない。すなわち、金の亡者になりきってしまうわけだ。法律も、裁判所も、介護の義務と相続の権利を表裏一体のものとは考えてはいない。これさいわい、なのだ。

 しかし「そんな厚かましくて狡猾なことは自分にはできない。だから自分の兄弟姉妹もそこまでするわけがない」と受け止める読者のかたも多いだろう。

 けれども、人間とは弱い存在でもある。大きな犠牲をともなう重い介護が必要な事態にいざ直面したときは、本能的に保身を考えてしまう。早期退職など自分の人生を変えなくてはいけないことには、二の足を踏む。なるべく損失はしたくない。我が身が大事なのだ。

 そして親が亡くなって、遺産がもらえるとなったなら、目の色が変わってしまう。もう今後まとまった財産を手にすることができない年齢になったなら、なおさらである。