当該箇所には、次のような記述がある。

 日本人抑留者は、共産主義に同調する親ソ分子と反ソ分子に区分される。これを利害によって釣り得る者、理論的に引き込める者、諜報勤務の経験がある者、政治活動の経験がある者、帰国後に就くと予想される職業、学歴、家族まで綿密に調査し、それに基づき逆用し得る者とそうでない者に判別するのが第一段階。

 反ソ分子は親ソ分子によって摘発させ、懲罰大隊か監獄に送り、帰国、減刑等の餌によって逆用する工作とした。こうした方法で集めた者の中から更に厳選し、最も適当と見られる者のみソ連の協力者として送還が指令された。

 指令を受けた者の全部が謀者として活用されることはなく、1人の本当の謀者を作るために、影武者(当然発覚することを予想して指令を与える者)を数名準備することも考えられている――。

吉田茂のダレス宛の私信には
共産主義国への対抗策が書かれていた

 これは明るみに出た一帰国者の観察にすぎないが、共産陣営の「浸透」工作の実態は、首相官邸の吉田のもとにも相当程度伝えられていたと考えられる。

 わたくしは、モスコー(編集部注/ソ連の首都・モスクワ)の4億5000万中国人にたいする把握がそう強いともまた永続的とも信じません。中国を民主陣営に取りもどす方法はたくさんあるはずです。

 この点について日本の為しうるひとつのことは滲透であります。滲透はソ連の好んで用いる方法であります。

 しかし、われわれもまたこの方法を用いてはならないという理由はないと思います。地理的に近いのと人種と言語、文化と通商の古い絆のゆえに日本人は竹のカーテンを突破する役目に最も適しています。(『調書』第2冊、415頁)(編集部注/吉田の補佐役だった外務省条約局長・西村熊雄が作成した『平和条約の締結に関する調書』)

 1951(昭和26)年2月14日、吉田は来日したダレス特使(編集部注/ジョン・フォスター・ダレス。反共主義者として鳴らした米国の政治家)宛てのこんな私信案をまとめさせた。

 吉田が思いとどまり、ダレスには送られず仕舞いだったが、当人が述べているように、中国「逆滲透」は吉田が共産陣営の激しい浸透工作に倣ったものだったのである。