
戦後に誕生した日本の情報機関「内閣情報調査室(内調)」。その存在がまだベールに包まれていた1950~60年代、著名な学者や研究者に対し、巨額の委託費がひそかに支払われていた。なぜ内調はエリートに大金を渡したのか?その深い関係に迫る。※本稿は、岸 俊光『内調――内閣情報機構に見る日本型インテリジェンス』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。
古い日本間を事務室にして
日本初の情報機関が船出
1952(昭和27)年4月9日に新設された内閣総理大臣官房調査室は、初代室長の村井順(編集部注/のちの綜合警備保障=ALSOKの創業者)ただ1人から始まった。その様子を村井は後年、次のように綴っている。
「さて内閣調査室は一応発足したが、実際には私1人が発令されただけである。事務所もない、予算もない、部下もいないという「ないないずくし」の有様であった。(中略)
まず何よりも先に事務所を探さなければならない。私は総理官邸の中を隅から隅まで調べて廻った。そして物置代りになっていた古い日本間を発見し、これを事務室に使わしてもらうことにした。ついで大ホールの脇にある小さな控え室をあけてもらって室長室とした。
つぎは予算である。ところが4月は予算年度が始まったばかりで、次年度の予算まで1年間待たなければならない。そこで保利(茂=引用者註)官房長官にお願いして、ようやく予備費の中から500万円を割愛してもらうことになった。もちろんこれだけでは満足な活動はできるはずはない。しかし、無いよりはましであると考え、ありがたくいただいた」。