さらに重要なのは、吉田が持説である中国「逆滲透」構想を唱えた頃の日本の置かれた状況である。
吉田の国際共産主義運動に対する危機感は思い過ごしなのか否か、吉田の考えを反映した最初期の内閣総理大臣官房調査室をどう評価するかということにも関わってくる。
中共の工作員の策動ぶりを伝える資料からは、独立後まもない日本が情報戦の渦中にあった様子が生々しく浮かび上がる。「由来共産主義国は宣伝の国である」として、吉田は晩年まで「世論をウラから操作する」共産主義国への警戒を解かなかった。国際共産主義運動に対する吉田の危機感は、大げさなものではなかったのだ。
別の資料も併せて見てみよう。中ソ引揚者調査の範疇に入れた(11)は、ソ連の「浸透」工作を詳細に示す資料でもある。
(11)にも、(2)(3)(4)と同じ書式の「資料處理表」が付けられている。資料名は「長谷川梯団(昭和28年12月帰国)に対するNKVD(秘密警察を統括したソ連内務人民委員部=引用者註)の政治教育の大要」で、作成者は「防衛班長 肝付兼一」とある。
肝付は、ある依願退職した内閣事務官兼通産事務官をめぐり辞職願を偽造したのではないかと、社会党の河野密衆院議員が1955(昭和30)年12月5日の衆議院本会議で、内閣総理大臣官房調査室のありように絡めて、名前を挙げて質問した人物である。
ソ連は抑留者をふるいにかけ
協力者だけを日本に戻した
梯団長の長谷川宇一元大佐(関東軍報道部長)らの帰国は大々的に報道され、吉田首相の指示で与党自由党が同氏らを招いて話を聞くことになったとの続報も出ている(『毎日新聞』1953年12月1日付夕刊、同9日付夕刊)。
また、資料の作成年は「昭和廿八年」となっているが、資料中に「ソ連抑留者811名は昨年12月1日、引揚げてきた」といった記述があることから、1954(昭和29)年の誤記と見られる。
この資料は、梯団員の樫原一郎が語ったことを関西経営者協会から提供されたことになっており、「ソ連謀者(スパイ)のつくられる経過と、誘導取調、及び無理押しの誓約についてのべている点、特に注目に値する」と概要が記されている。