「あんなに孤独な人、見たことがない」

本書に登場する主要人物の一人、製品開発ディレクターのエスター・クロフォードはマスクに対して直言できる数少ないツイッター幹部の一人だった。

彼女も結局はマスクから解雇されてしまう。

そのときに彼女の脳裏に浮かんだのはマスクの寂しい姿だった。

このとき思い浮かべていたのは、ビリオネアのマスクではない。思いつきで無理難題を求めてくる、ときとして圧政的なボスでもない。テスラやスペースエックスを作った天才でもない。

このときは思い浮かべていたのは、最後に見た彼だ。いつも見ていた彼だ。

会議室にひとり、スマホだけを友に、机に向かっている彼だ。

あんなに悲しくて、あんなに孤独な人は見たことがない。
あんなにお金があって、あんなに力を持っていて、あんなに賢くて、あんなに夢があって(しかも、ぜんぶ、すばらしい志の夢で)、あんなになんでも持っていて、それでもなお――
あんなに悲しくて、あんなに孤独な人は見たことがない。
――『Breaking Twitter イーロン・マスク 史上最悪の企業買収』より

マスクの孤独と寂しさの裏にあるもの

たくさんの人にかしずかれ、お金も権力もうなるほどある人物が、スマホを手にして会議室に一人寂しく座っている。

マスクの孤独と寂しさの正体は何か。

私見では、仕事に「本物の充実」がないからだと思う。

心の隙間を埋めるために、人々の注目と称賛を求めずにはいられないのではないか。

多くの会社を経営し、精力的に動いているにもかかわらず、なぜマスクは自己実現や自己充足に到達できないのか。

目指すものが大きすぎ、その水準が高すぎるからかもしれない。

世界一の富豪ではあるけれども、自分が現実になしえたことが、スティーブ・ジョブズやジェフ・ベゾスやビル・ゲイツと比べて、それほどのものではないからかもしれない。

おそらくその両方だろう。

(本書は『Breaking Twitter イーロン・マスク 史上最悪の企業買収』に関する書き下ろし特別投稿です)

【執筆者】楠木建(くすのき・けん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座・競争戦略およびシグマクシス寄付講座・仕事論)
専攻は競争戦略。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022年、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年、日経BP、杉浦泰氏との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年、東洋経済新報社)などがある。