「ヤマ師」に学べ―怪物経営者・山下太郎の決断力と思考法#9Photo:PIXTA

裸一貫から一代でトヨタ・松下・日立を超える高収益企業「アラビア石油」を作った破格の傑物、山下太郎――。満鉄社員向け社宅建設という大仕事に、太郎は一流の技師・市田菊治郎と共に「質」に徹した家づくりで応えた。細部まで妥協を許さず、快適性と耐久性を追求した社宅は高い評価を受け、以後の発注を独占。継続的な成功へとつながる。チャンスは手を抜かず全力を尽くす者にこそ味方する。この連載では、山下太郎の波乱万丈の生涯を描いたノンフィクション小説『ヤマ師』の印象的なシーンを取り上げ、彼の大胆な発想と行動力の核心に迫る。

一切の妥協を許さないことで
満鉄の社宅事業を独占

「この仕事がうまくいけば、必ず次につながる」

 そう信じて山下太郎が全力を注いだのが、満鉄社員向け社宅の建設事業でした。初回発注は450戸。スケールの大きさに驚きつつも、太郎はその機会を「一生に一度あるかないかの勝負」と受け止め、全力で取り組みます。

 まず太郎がスカウトしたのは、市田菊治郎という一流の建築技師でした。東京帝大出身、長春ヤマトホテルの設計を任された人物で、建築に対する目も技術も本物です。

 太郎の依頼は明確でした。

「安普請ではだめです。満鉄社員であることを誇れるような、内地の住宅よりよほど良い社宅を造ってください」

 社宅の仕様は、役職ごとに等級が分かれ、特甲型から戊型まで、用途に応じた機能性と快適性を備えていました。最先端の温水暖房、二重窓、気密性の高いレンガ壁、ガス炊事、水洗トイレ、下水道、そして浴室の完備など、満鉄によって高い基準が定められていました。

 市田は、その基準を満たすだけでなく、細部にわたって配慮の行き届いた設計を施しました。さらに施工においても、資材の選定から現場管理に至るまで妥協を許さず、トラブルの起きない確かな品質が保つことに腐心しました。

 その結果、初回分の完成後、社宅の評判は満鉄内部に瞬く間に広がります。他の業者が利ざやを重視して手抜き工事に走ったのに対し、太郎の社宅は一切の妥協がありませんでした。結果、次なる発注は太郎に集中しました。それ以降、満鉄の社宅事業は太郎の独占となったのです。

小説『ヤマ師』より引用(P171172

 市田は1906年に東京帝国大学を出て、満鉄の設立と同時にスカウトされた。他の技術者とは異なり、建築の高等教育を受けた人物だ。父は京都の東本願寺・仏光寺・知恩院の造営を行った大工の棟梁で、その父の下でも直接、建築の経験を積んだ。

 満鉄の建築部門でも中心的役割を果たし、長春ヤマトホテルの設計責任者を務めた。ヤマトホテルは満鉄が経営するホテルチェーンで、後藤総裁の「欧米に引けを取らない一流ホテルをつくれ」の号令の下、社内建築家たちが腕を振るった。中でも長春はロシアの東清鉄道と接続する重要拠点であったことから、内外の要人の交渉の場として満鉄が特に力を入れた場である。大役を任された市田は、長春ヤマトホテルに当時の最先端であるアールヌーボー様式を採用し、その期待に応えた。

 満鉄からは、まず450戸が発注された。社宅建設にあたって太郎が市田に依頼したのは、とにかく最善を尽くせということだった。

「安普請ではだめです。満鉄社員であることを誇れるような、内地の住宅よりよほど良い社宅を造ってくださいよ」

 市田は一流の技師である。手を抜くことはしない。内地であれば、木と紙でできた家でも寒さをしのげるが、満州は真冬の温度は零下30度や40度になる。満州での暮らしを熟知している市田は、極寒の地だからこその対策を入念に施した。