「日本に来てショックだったのは、あらゆる人間に馬鹿にされたことだったね。中国にいた時、俺は周りの中国人から“日本鬼子(リーベングイズ)”と呼ばれて見下されていたんです。中国の中では憎きガイジンだった。

 だから、俺にしてみれば、日本に行けば差別を受けずに平等に扱ってもらえると思っていたんだけど、日本の小学校に入ったら、俺は中国から来たガイジンと見なされた。それで、今度は日本人の子どもたちから“中国人”として差別されることになったんです。

 さらにショックだったのが、他の残留日本人2世からも不当な扱いを受けたことです。葛西の学校だったので、学校に同じような2世が何人もいたんです。でも、彼らは旧満州の東北3省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)で育った奴らばかりで、俺だけそれより南西の河北省の出身だった。河北省って東北3省と比べるとなまりが強いんです。それで東北3省の奴らは、俺がしゃべる中国語がなまっていることを指摘し、田舎者だと言って馬鹿にしてきたんです。

 俺にしてみれば、中国人からも、日本人からも、残留日本人2世からも馬鹿にされるって、一体どういうことだよって感じでした。それで頭に来て、学校では一切中国語をしゃべらないことに決めた。孤立することはわかっていたけど、せめてもの抵抗のつもりでした」

必死に日本語を覚え
暴力で存在を誇示

 学校で中国語を話さなければ、必然的に日本語を覚えるしかない。佐々木は他の2世と異なり日本語能力を一気に伸ばした。

 だが、日本人の子どもたちは、佐々木がどれだけ日本語が話せるようになっても受け入れようとはしなかった。この頃の中国は、今と比べると経済的にもはるかに遅れており、ベールに包まれた不可解な社会主義国家という偏見が根強かった。同級生たちは、そんな国から来た佐々木をどこまでも異物として見なして、のけものにしていたのである。