また同じく天誅組のメンバーで国学者の伴林光平(伴林の名は、生家近くにあった伴林氏神社に由来する)も、訪問時の印象を『南山踏雲録』に書き記している。

 鳥語、元弘の余愁を含み、水声、建武の残悒を訟ふ。天下慷慨の士、誰か思古の幽情を発せざらんや(原文は漢文。引用者が書き下した)。

 鳥のさえずりや渓流の流れにも、後醍醐天皇の時代の愁いが残っていて、往時を思わずにはおれない。大げさだが、それぐらいここは皇居跡だと考えられていたのだ。

宿を管理していたのは
「マッカーサー参謀」の子孫

 しかのみならず、この建物をいまも管理する堀家の歴史にも引きつけられるものがある。

 明治時代の当主である堀重信は賀名生村長で、明治に創建された吉野神宮(祭神は後醍醐天皇)の宮司を務めた。その長男の丈夫は2・26事件発生時の第1師団長で、麾下の部隊より反乱軍を出してしまったため、事件後、予備役に編入されるという悲運に見舞われた。

 そしてこの丈夫の養嗣子である栄三もまた陸軍将校の道に進み、大東亜戦争の後半期には大本営の情報参謀を務めた。というとピンとくるひともいるかもしれない。そう、適格な情報分析により米軍の進路を特定し、「マッカーサー参謀」とあだ名されたあの名参謀だ(編集部注/米軍の進攻時期、兵力、場所を的確に予想したことで、「まるでマッカーサーの部下のような参謀」という意味でこう呼ばれた)。

 かれの著書『大本営参謀の情報戦記』は、現在でも経営者などに広く読みつがれている。曖昧な南朝の歴史など、あっという間に吹き飛ぶ濃密さではないか。

 現当主は、栄三の孫にあたる堀丈太氏である。堀氏は2019(平成31)年4月、祖先の遺産を後世に残すため収益化を決意し、堀家住宅でレストラン「KANAU」をオープン、さらに敷地内の離れをリニューアルして1棟貸しの宿泊所とした。これがさきほどから述べているホテルだった。

 したがって、正確には「旧皇居」そのものに泊まれるわけではない。内部も真新しいゲストハウスのおもむきで、居心地はいいものの、皇居という文字から連想される風雅や豪華絢爛さは期待できなかった。