そこには過去に「日本最古」とうたわれた日の丸が展示されているのだが、案内板を読んでみると、後醍醐天皇より賜った云々との話は最初だけ。

 最後は、近年の年代測定で「15世紀末~17世紀前半の製作」と出たとオチがつく。思わず肩透かしを食らったような気分になった。

 あるいは、同館裏の小高い丘(華蔵院跡)にある、北畠親房の墳墓。『神皇正統記』の著者として名高い南朝の功臣のものだけに、一対の灯籠(とうろう)にはそれぞれ「神皇正統」「忠烈無比」の文字があって、いかにもそれらしい雰囲気を漂わせている。しかし、これもやはり確実なものとはいえない。

 ここに南朝の拠点があったのはまちがいない。だが、これといって確かなものがない。そんな歯痒さがひしひしと伝わってきた。

地元の名家・堀家が
旧皇居を宿として受け継ぐ

 そんな賀名生に旧皇居が残り、しかもそこに宿泊できるというのである。その名も、「HOTEL賀名生旧皇居」。これはいったいなんなのか。

 秘密を解く鍵は、重要文化財の堀家住宅にある。さきほど触れた資料館に隣接する、茅葺き屋根に鰹木を9本配した入母屋造りの古民家なのだが、これは地元の郷士・堀氏の居館であり、後醍醐天皇が賀名生に立ち寄ったとき行宮として提供され、以後、しばしば南朝の皇居にもなったという。

 もちろん、例によって不確かな伝承ではある。また建物は、おそらく中世にさかのぼると考えられるものの、明治初期に柱の大半を撤去するほどの大改修を施されたため、その沿革をたどることはむずかしくなっている。

 ただ幕末には皇居跡としてすでに有名になっており、大和で挙兵した尊王攘夷(じょうい)グループ天誅組で参謀役を務めた吉村虎太郎はここに投宿し、「南朝在世賀名生皇居之蹟」と揮毫(きごう)した扁額を残した。これは資料館に現存しており、堀家住宅の冠木門にはそのレプリカが掲げられていた。