最初に気づかねばならないことは次のことだ。
トランプを、単純にリベラルがめざしていた社会への「敵」として解釈すべきではない。「トランプ」なる人物は、むしろリベラルが指向しているものの極限に見出される像である。
言い換えれば、リベラルが理想化している状態を極端化し、戯画化して表現すれば、「トランプ」という像が得られるのだ。どういうことか?
「伝統的な『禁止』を解除せよ!」
→それってトランプですよね?
アメリカのリベラルが実現しようとしている社会は、寛容な社会である。
かつては道徳的に望ましくないとされていたアイデンティティ――たとえば同性愛者やトランスジェンダー等々――も認められ、受け入れられる社会、かつてはタブー視されていた行動も、他者に危害を与えない限り、個人の自由の範囲として承認される社会。寛容であるということは、許容的だということだ。
ところで、道徳の本性は「禁止」にある。許容性の拡大は、したがって、伝統的な道徳から離脱していくプロセスである。このプロセスを徹底的に推し進めたらどうなるか。
「(ほとんど)すべての道徳的な禁止を平気で、恥ずかしげもなく公然と侵犯する人物」という像が得られるだろう。それこそがトランプである。トランプは、リベラルがめざしている許容的な社会の誇張された真実である。
リベラルは、トランプを通じて「あなたが向かおうとしている先には、こんな人物がいるのですが、これでよろしいでしょうか?」と問われているようなものだ。
無論、リベラルとしては、こんな極限は受け入れられない。避けなくてはならない。しかし、そうするとリベラルは別のかたちの極限を、自己否定的な極限を得ることになる――すでにそのような極限に到達してしまっている。
それが、「ウォーキズムWokism」と(右派から)揶揄されている潮流であり、また「キャンセル・カルチャー」と呼ばれている現象だ。
「ウォークWoke」とは、「目覚めている人」という意味であり、現代日本の社会現象と対応させれば「意識高い系」と似たような含意をもつ語である。律儀な左派系の人々を嘲笑的に指し示す名詞だ。