キャンセル・カルチャーは、リベラルにとっての社会正義、PC(編集部注/ポリティカル・コレクトネス)的な正義の基準にわずかでも反する言動をとった個人を排斥し、追放し、そして解雇したりする社会現象を指している。「キャンセル」という言葉が、その排斥の容赦なさを表現している。

寛容を追求した先には
不寛容な社会が待っている

 キャンセル・カルチャーや過激なウォーキズムは、リベラルがめざす寛容な社会を厳格に追求したことから生ずる自己否定的な現象である。

 寛容に徹しようとすると、「寛容」を推進したり、維持したりするとされる行動や態度からの一切の逸脱が許容できないものに見えてくる。そうした逸脱を禁止し、逸脱者を排斥しなくてはならない。

 つまり寛容を律儀に追求した結果として、当初よりもはるかに不寛容な状態が出現する。あるいは包摂的な社会を極限まで追求した結果、逆に過酷な排斥をともなう状態が導かれる。

 リベラルが求める寛容な社会、許容的な社会は2種類の極限をもつ。

 文字通りの過剰な寛容、道徳にこだわらない極端な許容性は、リベラルの外部に現れる(トランプ)。寛容の極限をリベラルの内部に押しとどめようとすると、今度は、極端な不寛容が得られる(キャンセル・カルチャーやウォーキズム)。

 寛容で、多様なアイデンティティを公平に包摂する社会。非常に結構だ。

 が、この理念には、根本的な矛盾がある。少なくとも、現代の資本主義を前提にしてこの理念を十全に現実化しようとすると、寛容の追求が不寛容へと反転するのである。

 ウォークによる批判のターゲットになりやすいのが、相対的に貧しい白人中産階級の労働者たちである。

 彼らは、リベラルな既成支配層が、移民やジェンダーに関して多様性や包摂を訴えているのに、自分たちを尊重し、積極的に包摂しようとしていないことに不信感を抱いているからである。

ボクらの旗印「多様性、サイコー!」を
受け入れない人とはやっていけません

 リベラルの「多様性・公平性・包摂」といった理念に反発を覚えるのは、下層の白人労働者たちだけではない。この理念は矛盾を内在させているので、これに疑問を覚えたり、うさんくさいものを感じたりするのは当然のことである。