この理念への疑念は、「道徳の不在」に対する不安という形態をとる。寛容な社会、許容的な社会という理念の極限には、一種の虚焦点(編集部注/実在しないのに関心を集める、空虚な中心)として、一切の道徳の効力が停止する状態、すべての道徳から解放された状態が待ち構えている。

 ある特定の道徳ではなく、道徳一般が無効になった世界…これは人に耐え難い不安を与える。

 こうした不安を抱く者は、リベラルの理念に対してどのように対抗するのか。

 ごく素朴な戦略は、リベラルが唱える「寛容」や「許容」の中で消滅しかけている保守的な価値観、「古きよきコモンセンス」を称揚し、リベラルの理念に対置することだ。

 かつて――1980年代に――共和党の大統領の誕生に貢献した政治組織「道徳的多数派」は、実際、そのような戦略をとった。

 が、今日の右派――リベラルな民主党に反対している右派――には、単純に、伝統的な道徳の復活や保守を訴える戦略はアピールしない。

 なぜならば、彼ら自身もすでに、伝統的な道徳の大半を恣意的なものに過ぎないと見なしており、それらが誰に対しても強制できるような妥当な規範ではないことを理解しているからだ。

ポリコレを壊すふるまいが
逆に道徳的とみなされるワケ

 個々の道徳や規範に関しては、もはや時代遅れのものに感じられる。しかし、リベラルが推進している「寛容な社会」のさらにその先に予感されている、道徳の真空地帯に対しては恐怖を感じる。

 このような心理状態にある保守派に対しては、どんな態度が魅力的なものとして現れるだろうか。許容的な社会へと向かうダイナミズム、民主党的なリベラルが成し遂げようとしていることをただ純粋に否定すること、これである。

 何か守るべき道徳を唱えるのではなく、「多様なものの寛容なる共存」を指向するリベラル派の実践に対して嘲笑的にふるまい、その価値を徹底的に貶める人物、つまりPC的な「社会正義」の規定を蹂躙し、蔑ろにするような人物が、今日の保守派を惹きつけるはずだ。