
日産自動車が、神奈川県横須賀市の追浜工場と平塚市の日産車体・湘南工場における車両生産を終了します。筆者は、カルロス・ゴーン体制前~ゴーン改革中、今はなき村山工場内の施設で安全運転のインストラクターを務めていました。今回は、元「中の人」から見た日産のリストラについて思うところを書きます。(モータージャーナリスト/安全運転インストラクター 諸星陽一)
街全体に強い悲壮感が漂っていた…
日産が村山工場を閉鎖して起きたこと
日産自動車は1991年に「日産ドライビングパーク」というユーザーを対象とした安全運転講習会をスタートさせました。当初は日本各地の広場(駐車場など)を周る運用でしたが、98年に村山工場(東京都立川市~武蔵村山市)内に専用コースを備えた、大きな啓蒙施設が誕生しました。
この村山工場内にできた日産ドライビングパーク(施設も活動も同じ名称)は、高速周回路も使える、世界的にも類を見ない規模のものでした。筆者はこの活動にテスト運用の時期から関わっていて、98年に巨大施設が完成した当時、とても感慨深かったのを覚えています。利益を生まないものの、社会的に非常に意義のある分野に巨額を投じる日産の姿勢に感心したからです。
しかし、現実は甘くありません。日産は経営難で、約2兆円の有利子負債を抱えていました。そして99年3月に仏ルノーが日産の株式36.8%を取得し、6月にカルロス・ゴーン氏が送り込まれます。10月には「日産リバイバル・プラン」が発表され、村山工場の閉鎖(2001年)が決定。日産ドライビングパークは2001年を待つことなく1999年中に閉鎖されました。