恩師が血相を変えてサインを阻止
その理由は…

 ヨーロッパへ移籍した最初の日本人選手は、1977年10月に日本サッカーリーグ(JSL)の古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)からドイツ・ブンデスリーガ1部のケルンへ移籍し、さらにヘルタ・ベルリン、ヴェルダー・ブレーメンとドイツで計9年間プレーした奥寺康彦さんとなる。

 つまり、釜本さんがオファーを受けたクラブへ移籍していれば、海外でプロとしてプレーする最初の日本人選手になっていた。残念ながら実現に至らなかった理由を振り返る前に、まずは得点王を獲得したからこそ起こった、ちょっと信じられないようなメキシコ五輪の後日談を記したい。

 メキシコ五輪のサッカー競技をすべて終えた直後。食事を済ませて、選手村内の宿舎に戻ってきた日本チーム一行を、一人の見知らぬ外国人男性が待ちかまえていた。その男性は笑顔を浮かべながら、得点王を獲得して注目されていた釜本さんへ色紙のようなものを差し出してサインを求めてきた。

 そして釜本さんがペンを走らせようとした瞬間に、その場に怒声が響きわたった。

「何だ、お前は。いったいどこの誰なんだ。何で選手村に立ち入りできるんだ」

 声の主は日本サッカー界の父と呼ばれる、西ドイツ出身のデットマール・クラマーさん(故人)だった。1964年の東京五輪をもって日本代表コーチを退任した後も、クラマーさんは心血を注いだ日本を指導するためによく来日し、応援に駆けつけたメキシコ五輪では銅メダル獲得に心を震わせていた。

 そして、選手村内の一件ではクラマーさんの叫び声に驚いた男性はサインをもらわずに退散している。よくよく考えてみれば、一般のファンが選手村のなかへ入ってこられるはずがなかった。当時は確かめようもなかったが、くだんの外国人男性はもしかすると海外チームのスカウトだった可能性もある。その場合は気軽に応じたサインが、契約書などへ悪用されるケースも起こりうる。

 だからこそ、クラマーさんは血相を変えてサインを阻止させた。西ドイツ留学を勧めてくれた恩師でもあるクラマーさんから、釜本さんはそのときにこんなアドバイスを受けたという。