そのなかで海外移籍の件に関しては、1975年から2シーズンにわたってブンデスリーガ1部の名門バイエルン・ミュンヘンの監督を務めた、クラマーさんの側から見たエピソードもある。
バイエルンに移籍していたら
幻の「史上最強のツートップ」
山城高校の1年生だった釜本少年を自ら発掘。動きが遅ければ「お前は北海道の熊になりたいのか」と、利き足とは逆の左足を「ヒダリ、ハイスクールレベル」とあえて厳しい言葉を駆使して指摘し、奮起を促しながら成長を導いてきた愛弟子の釜本さんと、いつか監督と選手の関係になる夢を思い描いていたのだろう。
当時のバイエルンおよび西ドイツ代表の絶対的なエースストライカーで、驚異的なペースでゴールを量産するプレーぶりから「デア・ボンバー(爆撃機)」と命名された、釜本さんよりひとつ年下のゲルト・ミュラー(故人)を思い浮かべながら、クラマーさんは後にこんな言葉を残している。
「ガマ(釜本さん)がバイエルンに移籍していたら、史上最強のツートップが誕生しただろう」
当時の世界のサッカー界は、自国以外の国のクラブへ移籍した選手は、自動的に代表チームから遠ざかるのが常とされていた。ヨーロッパから遠く離れた極東に位置する日本ももちろん例外ではなく、奥寺さんも西ドイツでプレーしていた9年間は、一度も日本代表でプレーしていない。
釜本さんもヨーロッパへ移籍していたら、いまも日本代表の歴代最多記録として君臨する国際Aマッチ通算75ゴールは生まれていなかったかもしれない。それでも日本サッカーが不人気にあえいだ冬の時代に、釜本さんがヨーロッパでもゴールを量産する大活躍を演じていたら――その後の歴史がどのように変わっていたのかを見てみたかったという思いを、訃報に接して抱かずにはいられなかった。