「これからはいろいろな人間がお前の周りに集まってくる。紙を出されたときには絶対に小さなサインはするな。後にタイプで何を上書きされるかわからない。サインをするときは紙いっぱいに大きく書け」
京都府立山城高校から早稲田大学をへて、JSLのヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)へ加入して2年目を迎えていた当時24歳の釜本さんは、さらなる成長へ向けてクラマーさんからこんな檄も飛ばされている。
「プロになる話も出るだろう。お前は世界でもまれろ。ただ、ビッグクラブに行かなきゃダメだ」
海外の4クラブからオファー
しかし「あきらめざるをえなかった」
そして、前出したように海外の4つのクラブから獲得オファーが届いた。特に西ドイツのクラブへの移籍を望みながら実現に至らなかった理由を、生前の釜本さんは苦笑しながらこう語っている。
「僕がウイルス性肝炎にかかった影響で、あきらめざるをえなかったんですよ」
釜本さんが突然の病魔に襲われたのは、日本代表の合宿に参加していた1969年6月。そのまま兵庫県西宮市内の病院へ搬送され、8月上旬まで長期の入院治療を余儀なくされた。さらに退院した後もヤンマーディーゼルでプレーしながら、同時も通院治療を受ける生活を続けている。
ウイルス性肝炎が完治し、コンディションを万全に戻すまでに、実に4年もの歳月を要さなければならなかった。闘病中もJSLで得点王を獲得し、日本代表でもゴールを積み重ねていった釜本さんだったが、ヨーロッパの舞台でプレーできる発病前のレベルには戻らなかったのか。
海外移籍が幻と化した釜本さんは、40歳となる1984年までヤンマーディーゼルひと筋でプレー。7度の得点王を獲得したJSLでは歴代最多となる通算202ゴールをマークし、Jリーグ黎明期にはガンバ大阪の監督を務めた。退任後は参議院議員を1期、さらに日本サッカー協会の副会長も務めている。