無論、事情を知らない者が軽率に発言すべきではない、という主張には一定の正当性がある。しかしそれが行き過ぎれば、重大な社会問題について当事者以外が語ることがタブー化し、議論が非常に限定的になる。客観と冷静の視点が欠ける。部落差別、LGBTQ、出産・育児問題などは、そうなりがちだ。

 また、当事者以外が語れない状況が極まれば極まるほど、関係者だけで構成されたコミュニティ内には、ときに歪(いびつ)な、一般的な社会常識とはかけ離れた「空気」が形成される。「部外者が、知らないくせに語るな」。ジャニー喜多川の性加害事件報道に際しても、一部のファンからそんな声が上がっていた。

「自分が」台無しにしたくない

 広陵高校の暴力事件は甲子園開幕前にSNSで拡散され、炎上状態になっていた。にもかかわらず、同校は1回戦に出場。しかし批判の大きさに事実上屈する形で2回戦出場は辞退した。

 1回戦出場から2回戦までの間に決定的な新事実が出てきたわけではない。むしろ1回戦に出場したことで出場選手の顔と名前が全国放送で大写しになったため、「暴力事件の加担者側」と決めつけてTV画面のスクショをXで晒すポストも出現した。1回戦出場は明らかに悪手だった。

 高校側は「生徒、教職員、地域の方々の人命を守ることを最優先する」ために2回戦の出場辞退を決めたと説明したが、もし本当にそれが目的なら、1回戦から出場を辞退したほうが風当たりは明らかに弱かった。出場選手たちも、メディアでここまで晒し者にはならなかっただろう。

 にもかかわらず、なぜ1回戦から出場を辞退しなかったのか?

 高校側(校長、あるいは監督)が、積み上げてきたものを「自らの責任で」台無しにするのをギリギリまで渋ったからだ。

 甲子園開幕後に出場校が出場を辞退するのは、高校野球始まって以来の大事件。そんな前代未聞の重大決定を「自分が」下したくはない。だからこそ、外敵の攻撃から身内を守るために苦渋の決断としてそうせざるをえなかった、という被害者じみた「空気」を醸し、責任の所在をぼかしたのだ。「生徒、教職員、地域の方々の人命を守ることを最優先する」という言葉によって。