戦国最強・上杉謙信の意外な弱点…唯一勝てなかった“誘惑”とは?
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※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

【現代リーダー必読】「そりゃ人がついてくるわけだ」…上杉謙信の弱さを武器に変える人心掌握術Photo: Adobe Stock
上杉謙信(1530~78年)は、戦国時代の越後(新潟)の戦国大名。越後の実力者・長尾家に生まれ、当初は長男でなかったため寺に入れられるが、兄が当主として人望がなかったこともあり、長尾家の当主となる。室町幕府では関東を治める立場ながらも、関東の北条家の勢力拡大により力を失った関東管領の上杉家を保護し、その名跡を継ぐこととなったことにより、上杉謙信と名乗る。甲斐(山梨)から信濃(長野)に勢力を拡大してきた武田信玄と川中島(長野)で5度戦うが、勝敗が決まらずに終わった。晩年は織田信長と対立し、手取川の戦い(1577年)では織田軍に勝利するが次の遠征の前に倒れ、意識が回復しないまま亡くなる。

越後の龍、戦国最強の誉れ

戦国時代に越後を支配していた上杉謙信は、「戦国最強の武将」といわれ、当時の多くの戦国大名から恐れられていました。

5度にわたり川中島の戦いを行い、謙信に勝てなかった武田信玄は北に進むことを諦め、太平洋側の南に進むこととなりました。

また、謙信は関東地方の北条氏康(1515~71年)を攻めたり、晩年には織田信長と戦い、手取川の戦いで織田軍に完勝したりしています。とにかく謙信は強かったのです。

毘沙門天の化身、ストイックな日常

そんな戦国最強の謙信の日常は、非常にストイックなものでした。

もともと子ども時代に禅寺で修行していたこともあり、日ごろから居城内にある仏像・毘沙天が置かれた建物にこもって坐禅を組み、瞑想をしていました。

毘沙門天は戦いの神であり、謙信は自分のことを「毘沙門天の生まれ変わり」だと言いました。

質素を極めた食と、兵士を鼓舞する「かちどき飯」

日常の食事は、副食として汁もの1品と惣菜1品だけの「一汁一菜」と、とても質素でした。ただし、ひとたび出陣となれば、山のように米を炊き、兵士たちに山海の幸をふんだんに振る舞ったといいます。

勝利を祈って豪勢な食事が振る舞われたことから、謙信の「かちどき飯」と呼ばれています(これは現在も新潟県で食べることができます)。

最強の武将が唯一愛した“誘惑”

また、謙信は生涯未婚で独身を貫いています。跡継ぎとなった上杉景勝(1555~1623年)をはじめ、子は何人もいましたが、すべて養子だったのです。私生活でも、女性の影が見えてきません。

このように謙信は、とにかくストイックで、まさに毘沙門天の化身のように戦のことだけ考え、戦に勝ち続けたように思えてなりません。ただし1つだけ、謙信をもってしても“勝てない誘惑”がありました。それは酒です。

とにかく大酒飲みだったのです。友人でもあった近衛前久(1536~1612年)の書状には、「朝から飲むのがたびたび」とあり、戦場でも馬の上で酒を飲むほどだったのです。