その後、技能実習制度を通じてアジア各国から労働者が流入し、2019年には「特定技能制度」が導入され、事実上の労働移民の受け入れが制度化された。

 こうした政策転換は、当初は「人手不足の穴埋め」に限定されると説明されていた。しかし実際には、彼らの多くが地域社会に定住し、学校や医療、住宅といったインフラに影響を与えている。

 政府が「日本は移民国家ではない」と強弁する一方で、現実には移民社会への移行が進んでいる。この矛盾が、国民の不安を増幅させ、「日本人ファースト」を求める下地を作っていった。

日本人ファーストは
「排他主義」ではない

「日本人ファースト」は、文化・生活様式を守ることや、過剰な文化摩擦を避けたいという生活者の自然な感情であり、否定すべきものではない。ナショナリズムに基づく考え方であるのは間違いないが、「排除的」ではなく「草の根的」と見るべきだろう。

「日本人ファースト」を排外主義だと断ずるのは表層的な理解に過ぎない。スローガンの真意は、反日的な思想や活動を持つ者に対しては警戒するが、親日的な外国人には及ばないのが普通だからだ。

 たとえば、参政党が進めているスパイ防止法の制定は「日本から外国人を追い出せ」という議論ではない。日本の安全保障や基幹技術を守るために、リスクの高い要素を適切に管理しようとする通常の取り組みに過ぎない。

 欧米諸国ではごく当たり前の仕組みが、「戦後」を引きずった日本では、長らく「差別」と混同され、導入が妨げられてきた。これは、核保有や憲法改正などの議論についても同様で、日本を「普通の国」にすべく保守政治家が提起した政策は「過激」「時代錯誤」として退けられてきた。

「日本人ファースト」は、文化や生活様式を守るというごく基本的な国家機能を回復しようとするものである。経済成長を追い求めるだけでは、社会が本来持つ絆や安心感が損なわれる。

 戦後日本では「国家は最小限の関与にとどめ、自由こそ至上」とする思想が支配的であったが、外国人の流入が顕著になると、今日の有権者はその発想に限界を感じ始めている。

 だが、「日本人ファースト」の台頭は、そうした提案の根源にあった「日本人が安心して暮らせる社会を取り戻す」という欲求が、ついに国民の多数の意識へと広がったことを示している。

 この動きは「排他主義」ではなく「多文化共生を無条件に押しつけられることへの草の根のカウンター」として理解されるべきだろう。

 共生にも限度があるという現実を直視しなければ、社会的な緊張はむしろ深まる。文化を守ることは国家の基本的役割であり、その文化を誰が担い、誰のために政策を設計するのかという問いは避けて通れない。