ただ人気番組をマンガ化する、というだけでは真のメディアミックスは成立しません。ファン層を拡大するという、明確な意思が求められるのです。
アニメやドラマのマンガ化自体は昔からありました。手塚治虫さんがディズニーの『バンビ』(日本公開1951年5月26日)が好き過ぎて、独自にマンガ化したこともあります。しかしこれはメディアミックスとは呼べないでしょう。
そういう意味で、日本のテレビ番組とマンガの最初のメディアミックス作品は、1960年4月5日から放送開始された実写ドラマ『快傑ハリマオ』だと考えています。この作品は、『月光仮面』(1958年2月24日)のプロデューサーでもある、宣弘社の西村俊一さんがプロデュースしたものです。
西村さんは1928年生まれ。お父さんの西村俊成さんは、講談社の「少年倶楽部」の編集者でした。住職でもあった俊成さんは、駒込の勝林寺を編集会議に利用していたそうです。そこには田河水泡さんや山川惣治さんら、戦前からのマンガ家や挿絵画家が参加していました。
彼らに可愛がられていた西村プロデューサーは、幼いころから「これからはマンガの時代だ」と認識していたはずです。宣弘社で『月光仮面』が企画された時に、原作者の川内康範さんの紹介で宣弘社に入社。同作のプロデューサーになります。
『快傑ハリマオ』では
メディアミックスが大成功
『月光仮面』は大ヒットし、貸本屋の鈴木出版が井上球二さん、村山一夫さんでマンガ化。さらに「少年倶楽部」から発展した「少年クラブ」で、桑田次郎さんがマンガ化します。この流れは「テレビ番組の人気が出そうなので、あやかってマンガ化した」ように感じられます。
したがって、「別のジャンルのファン層を取りに行く」という、私の考えるメディアミックスの定義からは外れます。実現しませんでしたが、桑田さんが描いたマンガ版のエピソードを映画化する、という話もあったようです。もし実現していたら、これはメディアミックスと呼べたのではないかと考えます。
『快傑ハリマオ』は、『月光仮面』の成功を見て、日本テレビで制作されたドラマです。太平洋戦争直前の東南アジアやモンゴルを舞台にした、スケールの大きなヒーローものでした。日本テレビの正力松太郎社長からは「ガツンとくるテレビ番組を作ってほしい」と注文が出され、大島ロケでは500人ものスタッフが投入されたと言います。