人類の歴史は、地球規模の支配を築いた壮大な成功の物語のようにも見える。しかし、その成功の裏で、ホモ・サピエンスはずっと「借りものの時間」を生きてきた。何千年も続いた栄光は、今や終わりが近づいている。なぜそうなったのか?『ホモ・サピエンス30万年、栄光と破滅の物語 人類帝国衰亡史』は、人類の繁栄の歴史を振り返りながら、絶滅の可能性、その理由と運命を避けるための希望についても語っている。竹内薫氏(サイエンス作家)「深刻なテーマを扱っているにもかかわらず、著者の筆致がユーモアとウィットに富んでおり、痛快な読後感になっている。魔法のような一冊だ」など、日本と世界の第一人者から推薦されている。本書の内容の一部を特別に公開する。

「人類の歴史には、絶えず絶滅の波が押し寄せ、かつて存在した多くの系統はその途中で…」全人類の共通の母「イヴ」の“驚くべき正体”とは?Photo: Adobe Stock

「遺伝コード」とは?

「遺伝コード」とは何だろうか? あなたの体をつくる何兆個もの細胞のひとつひとつの中心――つまり細胞の核の奥深くには、とても小さな“本”のようなものが収められている。

 この本には、細胞や組織、そして体そのものを健康に保ち、機能させるための「設計図」が書き込まれている。

 この本の正体はDNAと呼ばれる長いひも状の物質で、四種類の化学的な“文字”=(塩基)からなる「アルファベット」でできており、それらが順番に並んで「化学的な文章」を形づくっている。

 この文章ひとつひとつが、ひとつの「遺伝子」だ。この設計図の中には、およそ三万の遺伝子があり、それらは三〇億を超える塩基の並びで書かれている。

あなた自身の遺伝情報

 そして、すべての遺伝子はふたつずつのセットになっていて、ひとつは父親から、もうひとつは母親から受け継いだものだ。これが「核DNA」と呼ばれる、あなた自身の遺伝情報である。

 けれど、私たちの細胞にはもうひとつ、別のタイプのDNAも含まれている。それが「ミトコンドリアDNA」だ。

 これは、細胞の核の外側にある「ミトコンドリア」という小さな器官の中に収められていて、長さはずっと短く、わずか一万六五六九塩基からなるが、ひとつの細胞の中に数千ものコピーが存在している。

ミトコンドリアDNAと人類の系譜

 そしてこのミトコンドリアDNAは、父親からは受け継がれず、母親からだけ引き継がれる。ウィルソンらの研究は、このミトコンドリアDNAを使って人類の系譜をたどった。つまり、一般的な「家系図」ではなく、「母から娘へ」とたどる“母系の系譜”だったわけだ。

 だからこそ、彼らはその共通の祖先の女性に「イヴ」という名前を与えた――正確には、「ミトコンドリア・イヴ」である。

 彼らはまた、ヨーロッパ系やアジア系の人々から採取されたミトコンドリアDNAが、どれもアフリカのもっと大きな系統樹から分かれた枝であることを示した。

「たったひとりの共通の母」なのか?

 これはつまり、アフリカ以外に住むすべての人々、そしてアフリカに今も暮らす人々までもが、共通の“アフリカ出身の母”にルーツを持つということを示していた。

 とはいえ、「イヴ」が唯一の女性だったわけではない。彼女のまわりには、ほかにも多くの女性――母親や姉妹、娘たち――がいたはずだ。ただ、そうした女性たちは、子孫を残さなかったか、残したとしても現代まで続かなかった。

 人類の歴史には絶えず絶滅の波が押し寄せ、かつて存在した多くの系統はその途中で途絶えてしまった。そのため、結果として「たったひとりの共通の母」がいたかのような印象が生まれるのだ。

 また、「イヴ」は最初の女性だったわけでもない。彼女自身も、はるか以前から続く無数のホミニンの血を受け継いでおり、ただ「現代人すべてに共通する最後の母」であったにすぎない。

「イヴ」の正体

 もちろん、「イヴ」本人が当時、特別な存在だったわけでもない。彼女の頭の上に光の輪が浮かんでいたわけでもなければ、「この人だけが二十万年後まで子孫を残す」といった印があったわけでもない。

 もしかすると、彼女にはほんのわずかに、当時は誰も気づかないほど小さな、生存上の有利さがあって、それが世代を経てじわじわと効いていったのかもしれない。あるいは、ただ運がよかっただけなのかもしれない。

(本原稿は、ヘンリー・ジー著ホモ・サピエンス30万年、栄光と破滅の物語 人類帝国衰亡史〈竹内薫訳〉からの抜粋です)