1619年という年は、1776年に比較して、アメリカ史におけるその重要性を即座に想起できる者は少ないかもしれない。

 1619年は、ヴァージニア植民地に20名から30名の黒人たちが奴隷として連れてこられた年である。すなわちアメリカにおいて1863年のエイブラハム・リンカン大統領による奴隷解放宣言まで続くことになる奴隷制の始まりの年である。

 2019年、ヴァージニア植民地に黒人奴隷がはじめて連れてこられてから400年後のその年、『ザ・ニューヨーク・タイムズ・マガジン』は、8月18日付で1619プロジェクトという特集を組んだ。

 この1619プロジェクトは、アメリカが誕生したのは1776年ではなく1619年であると訴え、大きな反響と賛否を引き起こした。

 1619プロジェクトによれば、アメリカの本質は、奴隷制を内に抱え込みながら自由と平等を宣言したその欺瞞にあり、抑圧されてきた黒人たちによってこの欺瞞が克服されてきた過程にこそあった。

イデオロギーの対立が
ますます深まるアメリカ

 それにたいして、このような歴史観を否定するためにトランプ政権が立ち上げたのが、1776委員会だった。

 1776委員会の委員に任命された人びとにとって、アメリカの本質は、万人は平等に創造されていることを掲げた独立宣言にこそあり、この宣言にこめられた自然権が喪失していく危機の過程こそがアメリカの歴史だった(編集部注/アメリカ独立宣言は、不可侵・不可譲の自然権として「生存、自由、幸福追求の権利」を掲げ、これを脅かす危機とアメリカは戦い続けてきたという歴史観)。

 1776委員会の委員長を務めたのは、ミシガン州のリベラルアーツ・カレッジであるヒルズデール・カレッジの学長を務めるラリー・P・アーン(1952~)だった。このアーンは、西海岸シュトラウス学派の創始者であるハリー・V・ジャファ(編集部注/1918~2015。アメリカの地で自然権を最終的に完成させたとして、リンカンを偉大な政治家として評価した)の弟子として知られる。

 1776委員会の18名の委員のなかには、ジャファと長年にわたり行動をともにし、『クレアモント・レヴュー・オブ・ブックス』誌の編集人を務めているチャールズ・ケスラーの名もあった。

 バイデンは大統領に就任すると、すぐさまこの1776委員会を解散させた。

 アメリカ社会の分極化という状況が改善に向かう見通しが得られないなか、今日、アメリカの歴史観という側面においても、この分極化はこれまでにも増して先鋭化しつつある。1619プロジェクトと1776委員会の対立は、その象徴だった。