これは実は、すごいことなのだ。これがまさしく、「国家という枠組みが溶けつつある」ということだ。

「日本に住む日本人であること」よりも、インターネットがつながっていること、インターネット通販の配達が届く場所であること、スマホの充電ができることのほうが、日々の生存戦略にかかわってくるのだ。つまり国家よりも、テクノロジーの利便性のほうが、人々の生活において必要不可欠になってきたというわけだ。

「日本という国家が自分たちの生活には不可欠だ」「日本のためなら死ねる」といった意識を、もはや僕たちは共有できない。そして意識の共有なくして、国民国家は成り立たない。

 もちろんまだ国という枠組みは残っている。税金による富の再分配を中心とした国家という機能は、今後も残るだろう。

 だが、それを支える国民、そして国民国家という概念が、もはやファンタジーに過ぎない。というより、そもそも想像上の産物なのだから、化けの皮が剥がれたというべきか。

 今や国民を作るための洗脳装置は不要になった。これから人間は、国民ではなく自由な「民」になるのだ。

誰もがネットを使う時代でも
情弱はずっと情弱のまま

 学校は何のためにあるのか。「世の中で必要な知識を学ぶため」「友だちと交流して社会性を身につけるため」などといった答えがあるだろう、と想定した。

 この2つの答えについて、僕から反論しよう。

 まず、「世の中で必要な知識」が一定程度あることは間違いない。生きていく上では大切だ。勘違いされやすいのだが、僕はその部分を否定してはいない。

 適切なネット検索の手法、生成AIの効果的な使い方など、今の時代を生きるのになるべく持っていたほうがいいスキルや知識は存在する。その持ち合わせがない人は、ある人に比べて、圧倒的に社会的リスクが高いだろう。

 また最低限の基礎的な知識は学んでおかないと、インターネット上にあふれている、詐欺的な情報や誤った情報に騙されてしまう。