大物マダムタレントのアレン様撮影:尾藤能暢

華やかな外見と強烈な存在感で知られる大物マダムタレント・アレン様。だが、その背後には数々の試練を経てたどり着いた独自の人生観がある。人と比べて得る幸せをあえて否定しないなど、大胆でユーモラスな主張は、読み手に「生きるヒント」を投げかけてくるだろう。※本稿は、アレン『幸せになりたいとほざくァンタ達へ』(幻冬舎)の一部を抜粋・編集したものです。

人と比べて得る幸せに
罪悪感を抱く必要はない

「何が幸せか」ということを考えたときに、幸せの価値観って本当にバラバラなのよね。それこそ人を蹴落として幸せを感じる人だって普通にいるのよ。

 芸能界だってそうよ。自分とキャラかぶりしているタレントが不祥事を起こして活動休止したら「最高」って思うじゃない?「ざまあ。私のポジションが増えた」みたいな。だから意外と、今幸せの極みにいる人でも、他人を踏み台にしている人はいっぱいいると思うわよ。

 ヮタクシはそういう、相対評価で幸せを感じる気持ちがあってもいいと思うの。自分が満足するのであれば

 たとえば、あの人よりもおいしいものが食べられるということを幸福に感じる人もいるわけじゃない?いいマンションに住んでいる人も、相対評価でしょう?それってその人にとっては幸せなことじゃない?

 その幸せが現代は“裕福な幸せ”になっていて、“お金を持っている人が幸せ”みたいになっているわよね。

 今って全部が差別化でしょう。飛行機だって、なんでファーストクラス、ビジネスクラス、エコノミークラスと分かれているのかといったら、金持ちは優雅にファーストクラスで行けるキロ(編集部注/原文では「キロ」は組み文字表記。アレン様は、「~だけど」の意味で多用する。以下同)、貧乏人は狭いエコノミーよね。

 ホテルもそう。貧乏人はスタンダードルーム、お金のある人はスイートルーム。すべてが区別されているじゃない、何もかも。

 だから現代を生きていく上で相対評価は避けられないと思うわ。資本主義社会に生きているKARA。

 でも、それで自分の気持ちが満足するんだったら、それも幸せの一個として考えるのはアリだと思うわよ。それを否定してしまうと、じゃあ土の上で寝ても自分がよかったら幸せ、とかになってきちゃうKARA。

 それは違うじゃない?だから、人と比べて幸せを感じる相対評価も悪いことではないわよ。