話し合いではなく強引に合意?
ヒカル氏が批判される理由

 まず、ヒカル氏の炎上でオープンマリッジそのものが世間から問題視されているかのような印象を受けるかもしれないが、その理解は正確でないので一度整理しておこう。「ヒカル氏への批判」と「オープンマリッジへの批判」に切り分けておく必要がある。

 ヒカル氏への批判の切り口はいくつかあるのだが、主だったところが以下である。

・「話し合いが行われた」と言いつつも、妻のノアさんに強引に合意させたように見える経緯(計7時間に渡る話し合いで途中からほかの男性2人が同席する、など)。

・結婚後ラブラブな動画を出してその路線でファンを期待させたのに、この度の宣言で従来の結婚観を逸脱するとわかり、裏切られたと感じたリスナーが怒ったり落胆したりした。

 最近もっぱら「多様性」と叫ばれているからか、「夫婦の形はそれぞれ。その夫婦ごとにぴったり合う形を本人たちが探せばよくて、他人が口を出すことではない」という基本スタンスの人は意外に多かった印象である(私もそのクチである)。これらの人はオープンマリッジそのものに積極的な異論はなく、「この一連の流れはどうなのヒカル」という所で異を唱えている。

 一方、従来の結婚観を破壊しようとする……感覚的には「秩序が乱される焦り」に近いだろうか、その観点からオープンマリッジぐるみでヒカル氏を批判する人も見られた。これはもうオープンマリッジという概念が生まれて以来の議論になるが「パートナーを傷つけることにならないか」という懸念を含む。

 また、「ただ浮気したいというだけのことを新しげな横文字でごまかそうとしていないか」といった指摘もあった。これは「オープンマリッジ」系の新語を耳にしたときに覚える違和感の正体、そのうちのひとつを言い表しているであろう。

 誠意ある紆余曲折を経た「オープンマリッジ」なら説得力もまだ備わるかもしれないのだが、そうでないとなんだか方便っぽかったり、自己弁護の材料に体よく使っている気がして、そこ不信感に募りやすいわけである。