お釈迦さまが活躍したころは、商工業が発達していて、けっこう豊かないい時代だったことがわかっています。

 しかもお釈迦さまが歩き回り、教えを説かれたガンジス川流域は作物が豊かに実る地域。生産活動に携わらずとも、人々からのお恵みだけで生きていくことが可能でした。

 だからお坊さんたちは一日24時間、悟りを求めて修行に没入していたのです。

 それを「いいご身分だ」とやっかむ人がいたのでしょうか、仏典に「ものをつくらず、ただ托鉢をして施しをもらって生きているあなたは何者だ」と問われる場面があります。

 お釈迦さまはこんなふうに答えています。

「あなたたちは畑を耕している。牛をひいて種をまき、作物の実りを得て生きている。私たちは畑を耕さないけれど、自分の心を耕し、心を整えて生きている。それによって得られる心の平安という実りを楽しんで生きている」

 と。

 このお言葉はそのまま「内側の豊かさ」の大切さを説いています。

 お坊さんたちはひたすら、自分の心を修めることに励みます。一般の人たちはそういう暮らしぶりを見て「自分たちにはとても真似できない」と感心します。

 そして自分たちの分まで修行して、その成果として得た教えを説いてくれるお坊さんを尊敬し、応援してくださるのです。

 大まかにいうと、これがいまにその真髄を伝える仏教者の生活。本当に質素です。持ち物といえば、体に巻く布が三枚と、托鉢に出かけるときの鉢、歯を磨くための楊枝、この三つだけです。最低限これさえあれば、一生暮らしていけます。

 仏教には、そんなお坊さんの生き方を彷彿とさせる言葉があります。

「本来無一物」

 人は何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいきます。この真理のうえに立てば、自分の外側に多くの金品を持つことに、それほどの意味はないと気づくでしょう。

「虚栄心」に心が乱されそうになったときは

 赤ちゃんは文字通り「裸一貫」で人生を歩みはじめます。

 でも一つだけ、すばらしい“宝物”を持っています。

 それは「かわいらしさ」です。

 人間だけではなく生き物はすべて、かわいらしく生まれてきます。それは生きるための一つの戦略だと思うのです。